生きて カネミ油症51年の証言 矢口哲雄の闘い・3 民間療法で“ゲリラ戦”

民間療法「吸い玉」を家族に施す矢口=2006年12月5日、五島市奈留町の自宅

 1971(昭和46)年、矢口哲雄は、原因不明の病で福江島の病院に入院する妻を治したいという思いから、民間療法に詳しい男性に東洋医学の本や野菜を搾って青汁を作る道具を借りた。「軍隊の断食で生き残った経験があるからいちかばちか、かけようと思った」
 青汁を飲ませることにした。大根やニンジンの葉など八百屋で捨てる葉物をもらってすりつぶし、ガーゼで搾る。衰弱した妻はドロドロの汁を黙って飲んだ。道端のヨモギも擦って飲ませた。やがて採血時の血の色が少し濃くなってきた。
 ある日、見舞いに来た奈留の油症の男性が医師に対し「矢口の妻の病はカネミ油症だと医者が言えば医療費が出る」と訴えてくれた。「カネミとは断定できない」と医師が言うと男性は迫った。「ならば油症ではないという証明をせよ」。以降、医療費をカネミ倉庫に請求できることになった。
 矢口は、ある思いが確信に変わっていた。「西洋医学では家内を治せない」。妻を退院させ江迎で断食させる手はずを整えた。すると妻がつぶやいた。「子どもの顔を見たい」。4人のわが子への切ない思いを無視できず、妻を伴い、いったん奈留島に帰島した。周囲は断食に猛反対。「妻を殺しカネミから金をもらうつもりか」との声も。力が抜けた。助けたい一心だが、無理に連れ出すことはできなかった。後年、矢口は語った。「断食を辞めたのは正解だった。家内はあの体では持たんかったろう」
 矢口は飲尿、青汁、吸い玉、整体、温泉、断食などあらゆる民間療法を試し、効果がありそうなら家族に実践。油症に対抗する、地をはうような“ゲリラ戦”で晩年まで格闘し続けた。
 矢口家は、カネミ倉庫、PCB製造会社の鐘淵化学工業(鐘化、現カネカ)、国を相手取った集団訴訟に加わった。だが被告は責任をなすり合い、裁判は長期化。その間、原告勝訴の判決で国の損害賠償の仮払金が1、3陣の原告団に支払われた。矢口も5人分を受け取ったが、医療費、生活費などに消えた。
 国、鐘化は最高裁に上告。原告敗訴の可能性が高まり、87年、原告団は国への訴えを取り下げる。「法律が分からんから弁護士の言いなり。仮払金は返さなくていいということだった」
 裁判終結から約10年後の96(平成8)年、国は仮払金返還の督促状を送付。そのころ、元原告の多くは油症を秘匿して生きていた。

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