新連載 第2回「人生、風まかせ、運まかせ」 半世紀にわたる”旅”の回想録 横浜を出港した「ナホトカ号」は、太平洋沿岸を北上し、津軽海峡を抜けて3日後にソ連のナホトカに着いた。そして有無を言わせずにそこからさらに北のハバロスクへ向かう列車に誘導されてしまった。

横浜を出港した「ナホトカ号」は、太平洋沿岸を北上し、津軽海峡を抜けて3日後にソ連のナホトカに着いた。そして有無を言わせずにそこからさらに北のハバロスクへ向かう列車に誘導されてしまった。

新連載 第2回「人生、風まかせ、運まかせ」 半世紀にわたる”旅”の回想録

ソ連上陸を果たして欧州旅行へ 踏み出したが

横浜を出港した「ナホトカ号」は、太平洋沿岸を北上し、津軽海峡を抜けて3日後にソ連のナホトカに着いた。そして有無を言わせずにそこからさらに北のハバロスクへ向かう列車に誘導されてしまった。
当時ソ連は外貨獲得のために観光業に力を入れはじめ、「インツーリスト」という国営の旅行代理店がこのシベリアルートを外国人客用に開発、海外渡航自由化が始まった日本人に目をつけ、欧州へ向かう日本人の誘致を積極的に行っていた。
しかしそこは当時バリバリの社会主義国であったソ連である。開放したといっても自由行動は一切できない。ソ連領内を抜ける1週間は、くだんの「インツーリスト」の添乗員と名乗る日本語のできる公安職員が、我々の一挙一投足を常に監視しながら巧みに誘導していたのだ。
ナホトカからハバロスクまで約10時間。夜行の寝台列車であった。朝、到着するとすぐさまバスでモスクワ行きのプロペラ機が待つ空港へ誘導された。恐るべき手際のよさでああった。したがってナホトカの町も、ハバロスクの町の様子も全く憶えてはいない。
おそらく先様は意図的に恥部を見せまいとしたスケジュールをハバロスクまで組んだのだ。だから港周辺、駅周辺の記憶だけがあるだけで、写真撮影も制約があったため、今でもこの極東地域の印象はやたらと暗いイメージしか浮かばない。
「ナホトカ号」に乗り合わせた乗客は9割方欧州各地へ向かう日本人であった。北海道の農協の欧州視察と称した団体から、欧州公演に向かう東京の某バレエ団、さらにスウェーデン人と結婚し、旦那の待つ嫁ぎ先へ向かう女性、一念発起して見分を広めるために欧州アジアの貧乏旅行を計画した脱サラ青年たちや作家志望の大学生など、職種、性別、年齢は様々で、皆さん、海外渡航自由化を待ち焦がれて飛び出したような方々ばかりだった。
かくゆう私もその一人だったが、高校を休学してまで欧州を目指したこの17歳の若者に対しては、乗船当初は「何で?」という怪訝そう

海外見聞録の3つの名著に出会う

「海外へ行こう」という行動の引き金には2冊の名著の存在があった。ひとつは1961年に刊行され、当時100万部を超える大ベストセラーになった故小田実の「何でも見てやろう」(河出書房新社)で、26歳のフルブライト留学生が、欧米・アジア22カ国を貧乏旅行したこの書は、旅行記というより鋭い文明批評をしたためた秀逸の書であった。特に凄惨なインドの貧困にも目をそむけることなく向き合う姿や、アメリカの豊かさとその現代文明がもたらす病根、人種差別を直視する痛烈で優しい眼は、中学生だった私の心を深くえぐった。
その小田氏が書の中で氏が感銘を受けたと絶賛していた本が、作家の故堀田善衛氏が1957年に刊行した「インドで考えたこと」(岩波書店)だった。私は小田氏の書で知り、中学2年のときにこの書をむさぼり読んだ。
この本はインド文化論というジャンルがあるとすれば、間違いなくその筆頭に挙げられる古典であろう。著者が第一回アジア作家会議の出席でインドを訪れた際の見聞禄をまとめたものだが、インドだけではなくアジア全体、そしてそこから照射される日本という奥行きを持った構成が斬新だった。50年以上も前のこの当時から堀田氏は、大量生産・大量消費に走る日本の行く末を危惧していた。
それから30年経った1997年に驚くべき書がベストセラーになった。元共同通信記者から作家になった辺見庸(よう)氏が書いた「もの食う人びと」(角川書店)である。
飽食の国に苛立ちを覚え、異境へと旅立った著者が、紛争と飢餓線上の風景に入り込み、ダッカの残飯からチェルノブイリの放射能汚染スープまで、食って、食いまくった末に放つ豊潤にして鮮烈なルポルタージュ形式の書であった。
雑誌の連載時から大反響を呼んだ本編に、書き下ろし原稿とカラー写真を加えた名作だった。余談だが、当時某雑誌の編集長をしていた私は、辺見氏にインタビューを申し込み、「秘策は整腸剤のビォヘルミンを大量に持参する。

日本を出て7日目にやっと 欧州行き列車に

話は横道にそれたが、プロペラ機でモスクワに運ばれた我々日本人欧州行き組は、市の中心部にそびえる34階建ての「レニングラードスカヤ」という高級ホテルに放り込まれた。ホテル内も部屋もやたらに広かったが、かといって自由に外出など許されず、始終監視員の目が光っていたので、せいぜいホテルの周りをうろょろするだけだった。
横浜を出てからここまでちょうど5日目だった。そのため同行の日本人とはすっかり打ち解け、中には欧州での再会を約束するバックパッカーたちもいた。
しかし、我々をいくら高級ホテルに幽閉したとはいえ、それから1年半後に訪ずれた米国ニューヨークのきらびやかな世界とは対照的な社会主義国の憂鬱な実状が真に迫って見えた。
たとえば質素な衣装に身を包んだ人びとが無表情で少し怒ったように歩く姿や、帝政ロシアの威厳のある歴史的建造物は多いが、広告看板や装飾など一切ない変化に乏しい面白みに欠けた街並みには、当時夏だったにも関わらず何か寒々としたものを感じた。
しかしそれから25年後の1991年にソビエト連邦は崩壊する。まさかと思ったが、むろんこの当時は予想だしなかった。崩壊後、ロシア連邦となったモスクワへはその後2回ほど行く機会があったが、空港も明るくなり、散策も自由気ままにできた。そして何より女性のファッションが欧米並みに洗練され、評判のロシア料理店をはじめ、人気のグルメスポットやカラオケ店までできていたのにはには驚かされた。
今では欧州の目的地までは12時間前後で飛行できるが、このシベリアルートでは外貨獲得のためにモスクワに2泊の滞在を義務付けられ、日本出発7日目にしてようやく欧州行き列車の出発駅へ連れて行ってもらえた。
モスクワから欧州へ向かう列車は、目的地によって出発駅が違った。たとえばウイーンを経由してパリやロンドンに向かう人は、私のように北欧のヘルシンキへ向かう組とは別の駅に運ばれたのだ。
ここで同行の日本人の多くと分かれることになった。スウェーデン人に嫁ぐ女性、後は社会主義かぶれの得体の知れない40代とおぼしきおっさんさん2人だった。私はフィンランドのヘルシンキから南下してまず西ドイツのベルリンに向かうプランを立てていた。この当時「ガストアルバイター」という制度で、西ドイツは大量の外国人労働者を受け入れていた。だからここでひと稼ぎできないかと目論んでいた。
そんなことを考えていたら、ヘルシンキ行きの列車は出発した。それから延々と田園風景が続く。ロシア語表示なので停車駅がどこかもわからない。アナウンスもロシア語。車窓に映る風景は、今考えるとまさにモノトーンといっていい寂しそうな映像が続いた。
モスクワを出て約13時間、退屈この上ない時間をやり過ごしていたら、ついに国境の「バイ二ッカラ」という駅に到着した。ここでフィンランドの機関車と交代するのだという。
しかし国境を越えて西側世界に入った瞬間、そこには目を疑うような驚くべき世界が広がっていた。
【以下次号に続く】

<栗原富雄略歴>
1949 年 東京生まれ。
1966 ~68 年にかけて高校を休学して
2年間欧州、アジア、米国を放浪しながら世界一周。
1970 年、米国ニューヨークへ。
2 年間NY の私大に留学。
1972 年 帰国後、集英社で嘱託。
1975 ~1988 年ブルータス、週刊宝石などの取材記者。
1989 年 月刊「Sven Seas」副編集長。
1992 年 同編集長。以後 月刊「Vacation」編集長
月刊「MOKU」編集局長を経て2001 年にフリーランスに。
2013年 Yangon Press創刊
<VIP取材> ダライラマ14世 ゴルバチョフ元ソ連大統領
Dロックフェラー アウンサン・スーチー他。
<著書>「高校生世界一人歩き」(1969 年)「ニュースキンの逆襲」
「あの助っ人外人たちは今」「不動産広告の裏を読め」
「アンチエイジング革命」「ミャンマーの真実」他多数。
<活動>
元日本旅行作家協会会員
現在、一般社団法人日本ミャンマー文化経済協会専務理事,ヤンゴン事務所長
Yangon Press 編集長 兼 CEO

© Yangon Press Asia Ltd.