
旅も終盤。
珍しいカンボジア料理(滋養豊富な家鴨の孵化寸前の卵!)を堪能したり、バーでまどろむ時間もできた。
これまで豆記者気分で資料や地図にまみれていたので、旅の土産を冷やかす間もなかった。それが、とっておきの土産に出会う旅になろうとは!
土産とは、土産話をするために買うものだと思っている。
だから私は、その土地で出会った、とっておきの物を買うようにしている。
最初の収穫は、クラフト・ジンの「シーカーズ」とラム酒の「サマイ」。クラフト・ジンは全世界的にブームらしい。
シーカーズは、カンポットの山の天然水とキャッサバ、地元の植物などが原料、サマイは地元のサトウキビで作られていて、どちらも絶品だ。
酒は土産としては重いが、地元で育まれた植物などから作られたと思えば、小瓶でも買い求めたくなる。
カンボジアの肥沃な土地で育つ胡椒や珈琲豆、天空の城ラピュタを思わせる聖地クーレン山の蜂蜜も美味い。

日中は気温が38度くらいまで上がるカンボジアの空の下。
ホテル中庭のコロニアル様式の小さなプールサイドで葉巻に火をつけ、この国の歴史のあれこれをひとり想像する私。

今回の旅で、強く意識させられたことがある。
それは、「アーカイブすること」の大切さだ。
アーカイブとは、のちに歴史的な重要性を持つであろう記録や資料をまとめて保存、管理すること。
映画で記憶されるカンボジア音楽の歴史もある。
『カンボジアの失われたロックンロール』(日本未公開 2014年ジョン・
ピロジー監督)。去年の「東京フィルメックス映画祭」で衝撃を受け、サントラ盤まで買ってしまった。
この映画は、1950〜70年代のカンボジア音楽をめぐるドキュメンタリー。
そこには、文化振興に熱心だったシアヌーク殿下の時代から、ポル・ポト政権の時代までが映し出されている。
原始共産主義を唱え、音楽を退廃とみなしたポル・ポトは、音楽教師ばかりか歌手やバンドも粛清した。
その恐るべき事実が、当時の映像と音楽、貴重なインタビューによって構成されている。
当時の状況を日本に当てはめて、想像してみる。60年代のグループサウンズや歌謡曲、演歌までもが、政治思想で粛清されるのを。
ショーケンもジュリーも、山口百恵や美空ひばりでさえ、逮捕・監禁の末、虐殺されてしまうという恐怖。
私は、なぜアメリカ人監督がカンボジアの失われた音楽についてのドキュメンタリー映画を撮ろうとしたのかに興味があった。
当時の資料はほとんど残っておらず、製作は困難を極めたという。監督が、パッチワークのピースのように、映像と当時の音楽とインタビューを巧妙に繋いで、ドキュメンタリーが出来上がった。
そこで提示されたのは、まさに命がけの記録。
市民が隠し持ったり、当時の国王が保管していた貴重な資料だった。
この映画に触発された私は、歴史の断片を街のあちこちで垣間見ながら“失われたカンボジアロック”を探し歩いた。
最初に覗いたのは、プノンペンにある『SPACE FOUR ZERO』というポップアート・ギャラリー。
カンボジアのポップアートや古いカンボジアロックのレコードやカセット、CDなどが売られていた。
オーナーは、米テキサス出身のトニーさん。
カンボジアロックのレーベルを立ち上げるなど、さまざまな活動をされている。
トニーさんに、映画にしびれて東京からやってきたことを伝えると、すっかり意気投合。
のら猫のようにソファーでくつろぎながら、トニーさんの流すカンボジアロックに聞き入っていると、不思議な気持ちになる。
60年代、べトナム戦争から入ってきたであろう西欧音楽の影響。それは、ガレージロックであったり、ヒッピー、サイケ、ゴーゴー、ムード歌謡のような懐メロ感を漂わせるも、しっかりクメール色濃厚なオリジナリティーにあふれた歌になっている。
発声がそうさせるのだろうか、楽器だろうか。決して真似できない固有の音だ。
ポル・ポトの粛清によって多くの知識人や芸術家が命を失ったカンボジア。
当時、歌謡曲やロックのレコードのほとんどが闇に葬り去られ、それどころか歌手やミュージシャンたちが人知れず虐殺されたのは1975年から79年くらい。
私が10〜14歳の頃の出来事だと思うと、心にずっしりと重たい石を投げ込
まれたような気分になる。
悲しい運命によって消え去ろうとしていた音楽が、レコードを通して蘇り、私の耳に入ってくる。まるで、古き良き音楽にあふれた美しいプノンペンに、自分がいるような気分だ。
最近の流行はヒップホップやポップスのようだが、60〜70年代のタイ、ベトナム米軍基地がもたらした、当時のポップスやロックが再発見され復刻、再発
盤が受ける流れに、失われたカンボジアロックを聴く流れもある。
トニーさんが発信するプロジェクトは、こうした流れを継承したものだった。

私はさらに当時の音源や映像を探しに、プノンペンの街をのらのらとさまよい「ボパナ視聴覚センター」にたどり着いた。
ここは、『消えた画 クメール・ルージュの真実』(第66回カンヌ国際映画祭ある視点最優秀賞受賞)のリティ・パン監督らが設立したフランス資本のアーカイブ施設だった。
緑の多い建物のエントランス。
目を凝らすと、数匹の子猫が咲きほころんだ花びらの上をコロコロじゃれあっていて、のどかな雰囲気。
薄暗い建物の中に入ってゆくと、スタッフらしき数人が長椅子に座って何をするわけでもなく、寛いでいる様子だった。
日本から来たことを告げ、カンボジアの古い映像や音楽や写真など何か閲覧可能なものがあれば見せてほしいと頼んでみたが、なぜかあまり良い返事が返ってこなかった。
「とりあえず、昼の休憩が終わった14時くらいに来てみてください」というので再訪すると、建物の中はさらに暗く静まり返っていた。
「やはりきょうは一日中停電で何もお見せすることができない」と、申し訳なさそうに言われた。
建物の中を少し案内してくれたが、明りがないのでよくわからない。
私は、ここで初めて、カンボジアにおける計画停電の事実を知るのであった。
首都プノンペンの信号が消灯していたことにも驚いたが、2基あるホテルのエレベーターも時間ごとで1基のみの稼働になっていた。
いつも話しかけてくる人なつこいホテルスタッフに、当時のカンボジアロックや歌謡曲について何か知っていることはないか尋ねてみた。若い世代だったせいか、皆よく知らないようだ。
逆に、自分たちが知らない古い音楽について興味のある私に驚いていた。まさか、有名な歌手シン・シサモットの名前が私の口から出るなんて。
海外で日本の歌手・三橋美智也を知っていると言われる感覚に似ているかもしれない。
計画停電の中、私はカンボジアロックのレコードを小脇に抱え、空路でシェムリアップへ戻り、さらに香港経由で日本へと帰国した。
こうして私のカンボジアの旅は無事終わった。
帰国後、「沖縄国際映画祭」に参加した私は、法務省や映画の関係者など、会う人ごとに「アーカイブすること、保存することの重要性」について、何かに取り憑かれたように熱く語っていた。
現在の街並みや、忘れ去られていく祭りの映像や音を記録すること。
それらを、メタデータと併せて保存すること。
アーカイブされたものは、やがて映画として蘇生する。
基地の街コザ(現沖縄市)で1963年に生まれた「オキナワン・ロック」や1970年の「コザ暴動」。それらをアーカイブすることの重要性を考えてみよう。
もしかしたら『KOZA』という映画を、外国人監督が撮ることになるかもしれない。その時、リサーチャーは、アーカイブをめがけてくるはずだ。
より多くの資料が残っていることで、その映画にリアリティーがもたらされることになるだろう。
実際、『カンボジアの失われたロックンロール』がそうだったように。
人類が自分たちの記録をアーカイブすることは、「懐かしい未来、新しい過去」を発見することなのかもしれない。
新作『イメージの本』を発表した88歳のジャン・リュック・ゴダール監督が授賞セレモニーで口にしたのはこんな言葉だった。
「我々に未来を語るのは、アーカイブである」
なんと私の確信は、ゴダールから無意識のうちに得たインスピレーションだったのだ。
これからも、私はこうして旅や日常を記録し、多くのひとの記憶にとどめてもらうよう言葉で、演技で、さまざまなカタチで発信し続けたい。
〜旅を終えて〜
プノンペンで買ったレコードに針を落としてみた。
ジャケットにはクメール語で書かれているので一体なんの曲が入っているのか不明。
流れてくる曲に耳をそばだてた。
すると、私が子どもの頃からずっと大ファンのハンナ・バーベラのアニメ『アーチーズ』のテーマソング「シュガーシュガー」がクメール語バージョンだったので、のけ反ってしまった。
さらに、「ヘイ・ジュード」のクメール語バージョン。
突然半音下がるメロディーといった、超絶な変化球のアレンジ。
カンボジアのエルビスとも呼ばれたシン・シサモットによる歌声が、ビブラートの効いた電子オルガンと不思議なギターのペケペケサウンドに相まって、絶妙に美しく耳に懐かしい。
しかも、本当に落ち込んだ時に聞くと妙に元気が湧いてくるから、カンボジアロックは摩訶不思議。
「死は生の一部として生き続ける」と、希望を与えてもらえた気すらするのだから。(女優・洞口依子)
