将門の強大な力は現代にも生きていた!? 新説、東京は呪いの霊力に動かされている!|Mr.tsubaking

今回は「平将門の呪い」に関するスポットです。本題の前に、東京大手町にある「将門塚」についてお話しします。

将軍塚

承平天慶の乱で敗れた平将門は、その首を京都で晒されました。しかし、体を探して東の方角へ飛び去っり、その首が落下した場所に建てられたのが、この将門塚なのです。

時代は下り、大蔵省が将門塚を取り壊して、その上に仮庁舎を建てました。すると、当時の大蔵大臣をはじめ14名もの官僚らが死亡。さらに第二次世界大戦後、GHQはこの場所を駐車場とする為に工事をすすめていましたが、事故が相次ぎあえなく手を引きました。その後も、供養を行わずに隣接地にビルを建てる工事を行った際、ケガ人が続出し2名の死者まで出ており、しかもその2名が同じ苗字だったといいます。

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こうした強烈な呪いの力から、霊力が強いと信じられ、将門塚には現在でも手を合わせにやってくる人が後をたちません。

その力は、徳川幕府までも信じていたようです。将門塚がある大手町は、江戸城の正門にあたる大手門があったことに由来した地名です。江戸城は将門の霊力によって守られていたのです。

首塚の信仰とその呪いは、あまりにも有名で様々な本やネットで知ることができます。

一方、首をはねられた将門が身につけていた、鎧にも呪いの力が宿っていたようです。将門に勝利した藤原秀郷が凱旋の途中、突然の重病におかされました。秀郷は、将門の呪いを怖れ、その場所にあった円照寺というお寺に祀られていた薬師如来に参拝し、寺内に将門の鎧を埋めたと言います。その場所が、現在の東中野駅近くにある「鎧神社」です。

鎧神社

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神社の境内には、「狛犬型庚申塔」というものがあります。庚申信仰とは、60日に一度の庚申の日の夜に、北極星に住まう天帝に自らの悪事がバラされてしまうと信じられている信仰で、狛犬型は大変珍しいものなのです。

狛犬型庚申塔

ここまでの話も、ネットなどにも見られるものですが、ここからは、私がこうしたことを調べる中で発見した、あまりにも不思議な符号についてお話しします。

江戸の中心であった江戸城は、将門の首塚の前に大手門を作ることで、将門の強大な呪いの力にあやかろうとしました。

その後、街は江戸から東京へ変わっていきました。時代は進み高度経済成長とともに、経済の中心は新宿へ移っていきます。そして1991年には都庁も新宿にやってきたのです。この頃になると呪いの力をまちづくりに影響させるなんて事を言おうものなら、オカルト趣味の変人扱いをされていたことでしょう。

しかし、不思議な符号はここにあります。

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将門の鎧が埋められた鎧神社に庚申塔があるのはなぜかと考えると、将門が戦の際に守り本尊として信仰していたのが妙見菩薩であるということにつながってきます。

妙見菩薩も庚申信仰と同じく、夜空の真北にある「北極星」を神格化したものでなのです。

ここで、現在の東京の中心というべき都庁と、鎧神社の位置関係を見てみましょう。

地図(国土地理院の地理院地図)

ピンが落としてある所が鎧神社です。そこから南北に引かれた赤い線をたどると都庁があります。なんと、鎧神社は都庁の真北に位置しているのです。

真北に出る北極星を表す妙見菩薩が守り本尊だった将門、その鎧が埋められ、同じく北極星の信仰である庚申塔まである鎧神社が、都庁の真北にあるという事実。単なる偶然なのでしょうか。

将門が都庁を呼び込んだようにも思えてはこないでしょうか。(Mr.tsubaking連載 『どうした!?ウォーカー』 第33回)

■鎧神社

東京都新宿区北新宿3−16−18

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