「拉致」という字は

 長いこと振り仮名を添えてきた言葉が世に定着し、振り仮名を外す。新聞にはそういう漢字がある。「拉致」がその一つで、十何年か前までは「らち」とルビが振られたが、今はない▲〈拉致といふ文字すらすらと書きうべくなりて木犀(もくせい)の香の終(をは)りたり〉竹山広。ずっと前はすらすらと書けなかった「拉致」の字はいま、解決に「前進なし」という言葉を伴い、よく使われる。北朝鮮による拉致問題はいまだ解決に程遠い▲それが一歩でも前に進むのかどうか。安倍晋三首相が日朝首脳会談の「無条件開催」に意欲を示している。これまでは見通しの立たない会談には否定的だった▲北朝鮮の金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長が米朝首脳会談で「いずれ安倍首相とも会う」と語ったのを受け、首相は方向転換したらしい▲北朝鮮は「拉致問題は解決済み」という言い分を今は引っ込めているが、先の出方は分からない。会談の実現を急ぐ首相が前のめり姿勢の足元を見られ、主導権を握られてもいけない。難しい局面にある▲「一筆啓上賞」のかつての入賞作にあった。〈拉致の「拉」が/怒り、哀(かな)しむ瞳の中で/「泣」とかすんだ日を忘れない〉。「拉致」の字は時に涙でかすんで見えるらしい。拉致被害者とご家族が涙してきた歳月はあまりにも長い。「前進なし」ではもういけない。(徹)

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