U-20W杯MVPなのに、「残念」になってしまった5名

ついにグループステージも終盤となった2019年度のU-20ワールドカップ。世界中の若手選手が集結する登竜門であり、この大会を経てステップアップしていく者も多い。

しかし、時には大会MVPを獲得して大きな期待をかけられながらも、スター選手になることはできなかった者も…。

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アダマ・トラオレ(マリ/2015年大会)

数あるアダマ・トラオレのなかで「最新のスター候補」と言われた。2014年にマリ国内リーグのASバカリジャンからフランス・リーグアンのリールに移籍し、欧州初年度からインパクトあるプレーを見せた左利きのセンターハーフだった。

2015年大会では4得点3アシストでマリ代表を3位に導き、ドイツ戦では重要なPKを失敗したにもかかわらずMVPに輝いた。かつて同じ賞を獲得したセイドゥ・ケイタの再来になるだろう…と予測され、すぐに1400万ユーロでモナコへと引き抜かれた。

ところが、新天地では度重なる怪我に悩まされてブレイクを逃し、2017年にはリオ・アヴェ、今年はセルクル・ブルッヘに貸し出されつつも、それほど存在感を見せられずにいる。

とはいえまだ23歳。復活の余地は残されているが…。

ドミニク・アディヤー(ガーナ/2009年大会)

近年で最も「残念なMVP」として扱われているドミニク・アディヤー。エジプトで行なわれた2009年大会はガーナが初優勝を果たしており、その中で8ゴールを決めた。得点王とMVP両方を獲得し、個人二冠を達成している。

当時ノルウェーのフレドリクスタに所属していた彼は、ACミランのCEOを務めていたアドリアーノ・ガッリアーニ氏から高い評価を受け、2010年1月に加入が決定。ところがレオナルド監督からは戦力として計算されず、レッジーナ、パルチザン、カルシヤカ、アルセナル・キエフでローン生活に…。

結局そのまま完全移籍したアルセナル・キエフでも期待ほどのプレーはできず、カザフスタンを経て2015年にタイリーグへ移籍。今季からは2部のシサケットFCでプレーしている。

イスマイール・マタル(UAE/2003年大会)

坂田大輔が4ゴールで得点王に輝いたUAEでの2003年大会。MVPを獲得したのはホスト国のエースであったイスマイール・マタルだった。

その高いスキルとサッカーセンスは、欧州のスカウトをも唸らせるほどで、チームを驚きのベスト8に導いた。その際にはチェルシーやインテル、そしてJリーグのクラブからもオファーがあったという。

しかしUAE国内リーグのアル・ワフダで宝石のように扱われていた彼が国外に移籍することはなかった。2009年にカタールへ挑戦したときも、もはやUAEのサッカーに染まりすぎていて「彼は名前ほどの能力がある選手ではない」と批判されるほどに…。

UAE国内では絶対的なスターであり続けたとはいえ、彼が2003年大会で見せたインパクトを考えればあまりにも残念なキャリアになってしまったといえよう。

カイオ(ブラジル/1995年大会)

カタールで開催された1995年大会で優勝したのはアルゼンチンであったが、MVPを獲得したのは準優勝のブラジルでエースストライカーとなったカイオ・リベイロだ。

ベスト16の試合では日本代表を相手に2ゴールを決め、勝利に貢献。準決勝のポルトガル戦でも試合終了間際に決勝点をもたらした。

そのプレーのインパクトは大きなもので、彼に目をつけたのがインテルのオーナーであったマッシモ・モラッティ。10代の選手としては当時の世界記録となる移籍金で獲得されたが、ほとんど出場機会は得られず…。次年度にはナポリに貸し出されたが、そこでも活躍はできなかった。

後にブラジルへと戻ってからはサントス、フラメンゴでそれなりの活躍を見せたものの、重要な時に決定力がないとしてあまり評価されず。2005年に30歳という若さで現役を引退し、解説者に転身している。

アドリアーノ(ブラジル/1993年大会)

1993年のワールドユース(当時の名称)で3度目の優勝を果たしたブラジル代表。そのエースストライカーであったのが、当時スイスのヌシャテル・ザマックスに所属していた若きFWアドリアーノであった。

この大会では得点王が3ゴール、しかも7名いたということで数字にインパクトはなかったが、このアドリアーノは大会MVPも獲得しており「個人二冠」の活躍だった。

ただその後欧州では成功できず、ボタフォゴやアトレチコ・ミネイロを渡り歩いたあと、2001年にはJリーグの浦和レッズに加入。しかしそこでもシーズン途中での退団となり、6ゴールという結果でチームを去ることに。

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ただ『IPC』のインタビューで彼は「浦和のファンはクレイジーだった。彼らが試合中ずっと私の名前を呼んでくれたことは忘れられない。日本は一番印象的な国だった」と語っている。

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現在はサンパウロでサッカーを使った社会事業「Universidade do Futebol」に関わっているそう。

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