嘉納治五郎、五輪初参加と「英文日記」 スポーツによる国際平和主義を確認

ストックホルム・オリンピック大会入場式(左端、嘉納治五郎、講道館蔵)

ストックホルム大会が初参加

東京オリンピック大会が来年に迫り、チケットの抽選販売やNHK大河ドラマ「いだてん」によりムードは高まりつつあるようである。以下は、1世紀余り前のオリンピック物語である。

明治42年(1909)春、東京高等師範学校(東京高師、現筑波大学)校長嘉納治五郎は東洋初のオリンピック委員(IOC委員)に就任した。彼は、その翌年2年後に迫った明治45年(1912)スウェーデンの首都ストックホルムで開かれる第5回大会に日本からの代表選手の派遣を要請された。初のオリンピック参加要請である。

そこで彼は明治44年(1911)7月、大日本体育協会を設立し、推されてその会長となった。ストックホルムに派遣するオリンピック選手の予選会は11月18~19日に参加者91人を集めて東京の羽田運動場で開催された。100メートル、400メートル、800メートルの陸上単距離競争は三島弥彦(東京帝大学生、明治期の政治家三島通庸次男)が優勝した。マラソンは2時間32分45秒の驚異的世界記録を出した金栗四三(東京高師学生)が優勝した。日本初のオリンピック代表団は、役員(団長)嘉納治五郎、監督大森兵蔵(大日本体育協会理事)、大森のアメリカ人夫人で日本名安仁子(あにこ)が通訳、選手は単距離三島、マラソン金栗の2人と決定した。

三島、金栗の両学生選手は、明治45年(1912)5月16日夕、新橋発の急行で壮途に就いた。この日、東京高師では一度の壮行会では物足らないとして、再度寄宿舎食堂で600人の学友は共に杯を挙げて金栗選手の出発を祝し成功を祈った。席上、嘉納校長は「あくまでも日本男児の態度を発揮し、軽率な挙動をしてはならない」と注意した。「日本を代表する紳士たれ」と訓示したのである。講道館柔道の創始者嘉納は礼節をことのほか重んじた。

背広服に山高帽の盛装姿の学生金栗を先頭に送別の大旗を押し立てた600人の学生は大塚(現文京区大塚3丁目)の校門を、校歌を高唱しながら出て宮城前にまいり万歳三唱し、その後新橋駅に着いた。金栗らの一行は福井県の敦賀より出航し、シベリア鉄道経由で6月2日ストックホルムに到着した。半月の長旅であった。一行の中に嘉納団長の姿が見えず、嘉納は一行より遅れて単身大会へ出発した。

「英文日記」の意義

嘉納は外遊期間中「英文日記」を記している。嘉納が語学の才能にたけており、英仏独3か国語、中でも英語は翻訳を手掛けるなど読み書き会話に秀でていたことはよく知られている(生涯の外遊は13回に上る。当時としては異例である)。

筆者(高崎)はこの「英文日記」の原文を読む機会を得ていないが、「嘉納治五郎」(加藤仁平)に和訳文が詳述されている。同書から適宜引用することにしたい。ストックホルム滞在中の記述を中心とする。

「明治45年6月29日(土)、明るい夏らしい日である。6時起床、これを書く。
<肉体の鍛錬>日本人を強い健康な人とする方法として、我々が先ず為すべき事は、鍛錬を好むようにする事である。そのためには誰にでも出来るような鍛錬を奨励する必要がある。これは、言うまでもなく、跳ねたり走ったりすることと共に歩くことである。更に水泳、柔道、その種のものとして剣道がある。人々は屋内スポーツと共に、屋外スポーツにも努めなければならない。柔道・剣道を親しみやすいものとする方法が工夫されねばならぬ。…」「午後、ドイツとスウェーデンのフットボール(サッカー)の試合を見る。スウェーデンが負けた」。嘉納が目前の競技の勝敗だけでなく、日本人の将来について体育全般に強い関心を示していることがわかる。
(筆者注:嘉納はこの後もフットボールやテニスの国際親善試合をたびたび観戦している。強くひかれるものを感じたようである。関連書物を購入し欧米チームのコーチに指導方法も質問している)。

「7月1日(月)、6時頃起床。町に買い物に行く。英スウェーデン辞典、医学整形外科的体育(図書)、万年筆を求む」
(筆者注:医学一般や整形外科学の専門書をしきりに買い求めている。スポーツ医学に強い関心を抱いている。時には柔道も披露している)

「7月6日(土)、今日は競技の開会式の日である。国王夫妻がスタジアムに来られた。われわれは国王をスタジアムへの道に迎えに出た。その後行進が始まった。私もそれに加わった」
(筆者注:初参加の日本に加えて28カ国、3282人の各国代表がABC順に、先頭に国旗をささげてユニフォームも美しく入場した。日本選手団の入場式には金栗がNipponと書かれたプラカードを、三島が日の丸の旗を持って前列に並び、2列目に嘉納IOC委員、大森兵蔵、田島錦治(京大助教授)とスウェーデン日本公使館のスウェーデン人書記が続いた。選手の服装は三島が白の半袖のユニフォームに黒のソックス、白の運動靴、金栗は同じユニフォームに黒足袋で、ユニフォームにはいずれも日の丸のマークを着けていた)
行進の後、スウェーデン体操があった。男も女も非常に立派であった。100メートルの予選が17組に分かれて行われた。三島は第16組に出場した。彼はほとんどいつもの通りに走ったのだが、他の選手がすごく早いので彼は予選で失格した。レストランで昼食をする。帰宅しトルコの委員セリニシリベイを待つ。彼は来た。彼と王のガーデンパーティに行く。午後4時14分。午後6時半に帰り夕食。田島助教授、三島、金栗らと水泳を見に行く。午後9時半頃帰る。体を洗い、室内でちょっと体操をし、11時頃寝た」
(筆者注:嘉納は水泳に強い関心を示す。彼は参加国の代表や外交官らとも進んで交流している。晩餐などの懇談経費は嘉納の自前であった。彼は交際交流の先駆者であった)

「7月11日(木)、夕食後一人で水泳を見に行く。一旦帰ってからオリンピック組織委員会の招待でオペラに行く。オペラを見ている間に頭に浮かんだこと。
『美しい眺めや良い音楽等を楽しむ喜びは、ちょうど我々が、筋肉を使うことに依り生ずる喜びが、肉体鍛錬の結果であるのと同じように、ある種の知的能力の鍛錬の結果である。我々が舞台を眺めて喜びを感じ又楽しみを感ずる理由は、知的鍛錬から生ずる満足感である』」。ここに嘉納は肉体鍛錬と同じように知的鍛錬から生じる喜びを見出している。

「7月14日(日)朝、各国の人々が集まり、金栗の応援について相談する。午後1時半頃、競技場へ行く。80人以上に混じって金栗がマラソン競技にスタートする。不幸にも15キロ行ったところで心臓が苦しくなり走るのをやめた。6時半頃、帰途、途中(日本)公使館でお茶を飲む」。
(筆者注:マラソンは競技場から折り返し点ソレンツナに至る往復42キロのコースで行われた。石畳の多い、険しい起伏のある困難なコースである上に、この日は炎熱焼くがごとき猛暑であったので、出場者68人中落伍者が34人にのぼった。中でもポルトガルのラザロ選手は日射病で倒れ、翌日病院で死亡した。金栗は10キロまでは好調であったが、16キロ当たりで歩き始め26.7キロでついに棄権した。落伍したのである。近くの農家が手当てをしてくれたが、一時行方不明と騒動になった。三島も金栗も完敗したが、嘉納の心は動揺していない。金栗たちを慰めた嘉納の言葉を金栗は終生感謝していた。「嘉納先生は『お前達2人が両種目とも破れたからと言って、日本人の体力が弱いわけではない。将来がまだある故、しっかりやれ』と言って笑いながら元気づけてくださいました。私達はこのお言葉に本当に感謝して『またやるぞ』という気になりました」)。

嘉納はオリンピック初参加を通じて国際平和主義を確認した。同時に、欧米式のスポーツ指導法も習得した。

オリンピック東京招致と返上

<幻の東京オリンピック大会>については、本連載の第97回でも取り上げているので略記するにとどめる。

初出場後のオリンピック大会では日本人選手の活躍は目を見張るものがあった。第7回のアントワープ大会で初めてテニスで銀メダルを獲得し、第10回ロサンゼルス大会では「水泳日本」と称され、金メダルを7個も獲得するようになった。

IOC委員嘉納治五郎は、昭和8年(1933)、ウィーンにおけるIOC総会出席後、ドイツ、イギリスなどで柔道普及に尽くし帰国したが、岸清一IOC委員はぜん息を悪化させ、帰らぬ人となった。昭和11年(1936)7月29日、いよいよ第12回大会の開催地が決定される重要なIOC総会がベルリン大学講堂で開催された。翌7月30日にはイギリスのIOC委員ロード・アバーディアがイギリス開催の撤回を発表した。IOC会長のバイエ・ラツールが訪日の印象を語り日本寄りの意見を述べた。翌31日には開催地を選ぶ投票が行われ、東京36票、ヘルシンキ27票で9票差がついて日本開催が決まった。

日本は昭和11年に起きた2.26事件以後軍部の横暴が目立ち、盧溝橋事件から日中戦争は泥沼化していく。軍部は戦争遂行に集中する立場を取り、東京オリンピック開催に反対の圧力をかけて来た。また交戦国である日本にはオリンピックを開く資格がないとして、近代スポーツ発祥の地のイギリスや英連邦諸国が東京大会のボイコットを提唱し始めた。そこでIOC会長ラツールは、3月にカイロで総会を開き東京オリンピックの開催問題を再検討することになった。カイロ総会に出席する日本代表は嘉納の他に組織委員の永井松三ら9人であった。

カイロ総会は、昭和13年(1938)3月10日にリヤルオペラハウスで開会した。各国IOC委員の多くが東京開催に不安を隠さなかったが、日本に承認を与えたのは、明治42年以来約30年間もIOC委員を務め、今なおこうして頑張る嘉納へのせめてもの贈り物であったといえる。総会後、嘉納はアメリカに渡り、米国IOC委員ウィリアム・メイ・ガーランドらにカイロ会議における日本支持の感謝を表明するとともに、東京大会に多くの選手を派遣してほしい旨を伝えた。嘉納はスポーツを通じての平和主義者であり、軍国主義を嫌った。4月23日、バンクーバーから日本郵船氷川丸に乗船し、帰国を待ちわびる日本に向けて太平洋の航路を急いだ。

乗船から約2週間後の5月1日から風邪に肺炎を併発し、ついに5月4日、79歳(数え年)の人生を閉じた。嘉納の逝去により、オリンピック参加への精神的支柱と情熱を失った日本では軍部が台頭し、オリンピック大会どころではなく侵略戦争に転落していった。第12回オリンピック大会は返上され、オリンピックの歴史の中で「幻の東京オリンピック」との「汚点」となった。嘉納の平和主義は踏みにじられたのである。

参考文献:「嘉納治五郎」(加藤仁平)、「金栗四三」(佐山和夫)、筑波大学付属図書館資料。

(つづく)

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