打ち砕かれた「あの日」 〝民主の女神〟の行方 写真特集 天安門事件30年(2)

左は柴玲さん(共同)=筆者撮影、1996年3月 右は1989年5月31日朝、天安門広場に建った自由民主の“女神”。市民や座り込みの地方学生でいっぱい(共同)

 女神たちに注がれた期待は「あの日」打ち砕かれた。1989年6月4日の天安門事件。その日、広場には2人の女神がいた。1人は正面の毛沢東肖像と向き合うように建てられた「自由と民主の女神」の像。高さ約9メートル、ニューヨークの「自由の女神」を模倣した白い塑像は広場に突入した軍車両につぶされて崩壊した。もう1人は当時23歳、北京師範大学院生の柴玲さん。学生リーダーとしてウアルカイシ氏、王丹氏とともに民主化を担う女性闘士としてスポットを浴びた。追悼集会やイベントに女神のオブジェが登場したり、柴さんらかつての指導者たちがマイクを握って訴える姿を映像で覚えている人もいるかもしれない。民主化のシンボルのその後。事件から30年を振り返った。

(共同通信=柴田友明)

1989年、学生を中心とした中国の民主化運動は激しさを増していく。写真は「天安門事件」1カ月前の北京・天安門での学生デモ(共同)

 筆者が柴玲さんと会ったのは事件から7年後の1996年3月だった。台湾で初めて行われた「総統選挙」視察のために台北を訪れた柴さんに取材を申し込んだ。日本のメディアとしては初の単独インタビューだったと思う。

 事件後、フランスに亡命。米国に渡り実業界を歩み始めた柴さんに聞きたかったのは①中国当局が差し向けた追っ手をやり過ごし、どうやって国外脱出できたのか。「逃避行」の様子②中国の民主化運動に対する彼女のビジョンだった。

 前年95年に柴さんと行動を共にした活動家の封従徳氏(柴さんと結婚、その後離婚)が香港誌に2人を助けたのは大陸内の仏教徒たちだったと証言している。「彼らは西側の民主主義について賛成していなかったが、仏教の教え・精神から逃亡を助けてくれた。(海外では)自分を充実するように。もし再び帰国して再び困難な目にあったときは、またわれわれが助けます」と同誌に語っている。

 そういった直近の報道もあり、筆者は当時の状況について尋ねた。柴さんはしばらく沈黙した後に口を開いた。「多くの人の助けを借りて、私たちは救われました。それは事実です。でもそのことを少しでも語れば、(命の恩人たちに)大変な迷惑がかかります」。真剣なまなざしだった。

 彼女は民主化運動については饒舌だった。時代背景もあったのだろう。台湾の総統選を「独立」への機運と考える中国が近海で軍事訓練を強行。一方で、民主的な選挙を支持する米国は空母「インディペンデンス」などを中心とする空母打撃群を展開。軍事的な緊張の中で、民主化を進める台湾への共感が彼女にあったように思える。

天安門事件から25年、香港の追悼集会の会場に設置された民主化運動のシンボル「民主の女神」を模した像=2015年6月4日(共同)

 「暴力のない平和的な革命だ」「(中国の軍事行動は)逆効果だった。圧力は投票率を押し上げ、李登輝総統を有利にした。中国は既に時代が変わり、高圧的なやり方(民意の抑圧)が通用しないことを知るべきだ」「鄧小平は民意を反映し『改革開放』の旗印を掲げて登場したが、結局、政治は独裁化した。私たちの狙いは(内外の連帯で)後継指導者の江沢民(中国国家主席)に独裁の道を歩ませないようにすることだ。江沢民は選択次第で、中国の李登輝になれるのだから」。23年前の自身のインタビュー記事をあらためて目を通すと、彼女は大陸で果たせなかった民主化への「夢」を語ってくれたように思える。

 事件から20年後の2009年6月。柴さんは中国指導部に対して声明を発した。「報道の自由や地方の自由選挙の導入などの政治改革」「(中国の民主活動家)劉暁波氏の即時釈放」だった。翌年、劉暁波氏のノーベル平和賞が決まった。中国で基本的人権の確立のために非暴力的な手段で闘ってきたことが受賞理由だ。中国当局は、「国家政権転覆扇動罪」で服役中の劉氏の授賞式出席を許さず、各国に出席を見送るように働きかけるなど「過剰」な対応をしたことはまだ記憶に新しい。

2010年12月、本人不在のノーベル平和賞授賞式で、劉暁波氏の座席に賞状とメダルを置くノーベル賞委員会のヤーグラン委員長=オスロ市庁舎(AP=共同)

 授賞式が行われたノルウェー・オスロにはかつての柴さんら天安門のリーダーたちが集まった。共同通信記事(2010年12月8日、10日)によると、柴さんは米ボストンでコンピューターソフト会社を経営しながら、中国の女性の権利向上を目指す活動と紹介。「感動的なセレモニーだった。劉暁波氏は物理的にはいなかったが、魂は会場にいたと思う」「授賞式の成功へ向けて内外の活動家が密接に連携していることが示せた」と語っている。

 「天安門事件」の記憶自体が風化する中、柴玲さんの名前を聞いて当時の学生リーダーだと思い出す人はもう多くはないが、事件30年の節目に彼女をテーマに本稿を書いた。中国留学経験のある筆者にとって事件の犠牲者は同世代の人でもある。

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 中国出身の作家楊逸さんの小説「時が滲む朝」は事件当時の学生たちの青春群像をモチーフに描き、2008年に芥川賞を受賞。ルポライター安田峰俊氏のノンフィクション「八九六四 『天安門事件』は再び起きるか」は現場にいた60人以上の人の証言をまとめた作品で今年5月、大宅壮一ノンフィクション賞に決まった。歴史に刻まれた事実はどういうかたちであれ、今後も伝えられていくであろう。

1989年6月5日、天安門広場に近い長安街で、戦車の列に一人で立ちはだかり、前進を阻止しようとする男性(左下)。その後戦車は向きを変えた(ロイター=共同)

天安門事件】中国で1989年4月に死去した改革派指導者、胡耀邦元共産党総書記の追悼を機に起きた学生や市民の民主化要求運動を当局が武力で弾圧した事件。当局は死者数を319人としているが、正確な数は不明。党内の保守派主導で北京に戒厳令が出され、軍が6月3日夜に制圧を開始、4日未明に中心部の天安門広場に突入し鎮圧した。学生たちに理解を示した趙紫陽党総書記(当時)は事件後失脚。当局は事件を「政治風波(騒ぎ)」と位置付け、弾圧を正当化している。

日本政府の反応菅義偉官房長官は6月3日の記者会見で、4日に発生から30年を迎える1989年6月の中国の天安門事件を「軍の実力行使による衝突の結果」と表現し、当時の中国対応を批判した。ただ「武力弾圧」や、米国が用いた「虐殺」などの表現使用は控え、日米間の温度差をにじませた。対日姿勢に軟化の兆しを見せる習近平指導部に対し、一定程度配慮した形だ。外務省によると、菅氏の発言は、事件直後の89年6月5日に当時の塩川正十郎官房長官が発表した談話に沿った内容。日本がこの問題を棚上げにしていないことを、内外に明らかにする狙いがある。日中関係の大幅改善を目指す安倍晋三首相としては、今月下旬に来日する習近平国家主席に対し、人権問題への取り組みをどのように促すかが課題になる。

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