
今月7日公開の『エリカ38』(日比遊一 監督)について語りたいと思う。
この映画は、自分を38歳と偽っていた60歳の女詐欺師の実話に基づいている。
事件をニュースで知ったとき、わたしは奇妙な思いに駆られた。
「この女は、何て映画的なんだ! でも、この女を演じられる女優は果たして日本にいるのかしら?」と。
ところが、ピッタリの女優がいるではないか。
ショートパンツから、すらりと伸びた脚。
巻き毛をくるりん揺らし、上目遣いでやってくる女。
軽妙な語り口調。そして、愛らしさの襞の奥に見え隠れする女の業。
そのひとつひとつを丁寧になぞってゆくと浮き彫りにされてゆく〝エリカ〟。
それは「浅田美代子」しかありえなかった。
『エリカ38』は、樹木希林さんが企画を奥山和由プロデューサーに持ち込み、浅田美代子さん主演で制作された。
今年4月の沖縄国際映画祭の特別招待作品にもなった。
わたしは東京の試写室で見ていたが、映画祭では浅田さんご本人ともお目にかかれた。
ほんのわずかな時間だったが、映画のみならず樹木希林さんのことも語り合えた濃密なひとときだった。
浅田美代子さんに関する記憶を紐解くと、なんだか忘れられない不思議な印象を残すひとだと思う。
最初に美代子さんを知ったのはお茶の間のテレビの中だった。
TBSのホームドラマ『時間ですよ』だっただろうか。
あのドラマは〝2階の真理ちゃん〟から〝隣のミヨちゃん〟と、当時のアイドルスターがお茶の間に降りてきたことも革新的だった気がする。
でも、銭湯という設定で女の裸が出るせいか、小さな弟のいる我が家ではチャンネルを変えられてしまい、あんまり見ることができなかった。
それに続く『寺内貫太郎一家』では、可憐に歌う美代子さんと、猫みたくじゃれあい絡んでくる「きん婆さん」こと悠木千帆(樹木希林さんの以前の芸名)さんの佇まいに衝撃を受け、毎週楽しみにテレビの前で見入っていた。
石屋を営む寺内貫太郎の家族の話。
脚本家・向田邦子さんによる、家族の中に宿る「闇」の描かれ方が、なぜか幼いわたしを魅了した。
石屋の冷んやりとした雰囲気。
高校を中退した住み込みのお手伝いさん(ミヨちゃん)がいる東京下町の風情。
いつも怒って、ちゃぶ台をひっくり返す父・貫太郎。
「お婆ちゃん、まさか百まで生きるわけじゃないでしょ?」と、きん婆さんに毒を吐く貫太郎の妻・里子。
仏壇の脇の壁に貼られたジュリーのポスターに悶絶するきん婆さん。
石屋の周囲のワケありな個性あふれるオトナたち……。
笑いの中に潜む老いや死、オトナの事情などなど、それぞれの人生の「闇」を、子どものわたしは垣間見てしまったのだ。
わたしは、映画『エリカ38』に、ミヨちゃんときん婆さんを重ねてみた。
すると、美代子さんと希林さんが育んできたものが今までずっと継続されていることに気づく。
それは、先輩と後輩の垣根を超え、まるで母娘のような、年齢の離れた姉妹のような、もはや誰も立ち入ることのできない二人だけの関係だった。

「うぬぼれんじゃないわよ! 人間なんて70年や80年のうちに、みんなに可愛いわねって言われるのは、ほんの5年か6年。そんなものに頼ってたら、ミヨちゃん、あんた身を誤るわよ」(『寺内貫太郎一家』第28話より)
これは、きん婆さんが、故郷へ帰省するお手伝いのミヨちゃんに放つ台詞だが、いま聞くとまるで何かを暗示していたかのようでちょっとびっくりする。
向田邦子さんならではの脚本による凄みも含んでいるが、この場面の希林さんと美代子さんの表情のカットバックの緊張感。そして、この台詞を放つときの希林さんのエネルギーとそれを享受する美代子さんがリアルに感じられてならなかった。
昭和のドタバタなホームドラマの中で、美代子さんと希林さんが育んできたもの。
取っ組み合いの喧嘩をしたり、一緒に歌ったり、冗談を言い合ったり。それはまるで母娘のような、年の離れた姉妹のような、年長者の知恵と可憐な若さが織りなす二人の関係。
この二人にしか醸し出せない決定的な抽出された何かが、『エリカ38』には焼きついているのだ。

たとえば、二人が同時にフレーム内におさまっている場面は少ない。
それでも、映画には二人の女の業が炙り出されている。
映画ではふつうあり得ない「交差しない、交わらないお互いの眼差し」のショット。そこへ、二人が唐突に童謡を歌い出すという場面で、わたしは思わず胸が熱くなった。
映画の中で「歌う」という場面、さらには「一緒に歌う」という行為ほど、魅了されるものはないとわたしは思っている。
そしてこの場面に、映画の中に存在する母娘役の、浅田美代子と樹木希林という二人の女優が織りなす何かが強烈に焼き付いていたのだ。
バウムクーヘンのように何層にも歳の層を重ねた、彼女たちにしか醸し出せない雰囲気、佇まい。
その何層にも重なった人生の襞の奥のそれぞれを指でそっとなぞると滲み出すような、そんな不思議な印象を残す作品にほろりと感動せずにはいられなかった。
わたしにとって、テレビの中の〝ミヨちゃん〟こと美代子さんは、いつしか目の前の存在になってゆく。
わたしはデビュー前、浅田美代子さんに一度だけ会ったことがある。
そのときの彼女は、浅田美代子さんではなく、吉田拓郎夫人だった。
吉田拓郎さんはニューアルバムのジャケット写真用に素人モデルを探していた。写真家の田村仁(通称タムジンさん)は、わたしをその候補として拓郎さんに会わせてみようと思ったのだ。
場所の記憶は定かではないが、山を越えたら住宅地が見えてきて、そこにある豪邸にお邪魔した。
大緊張。まさに借りてきた猫状態。
なにがって、家の中はまるで外国映画にでてくるような白い毛足の長いシャギーなモフモフ絨毯。屋内リビングのモフモフに座って裸足で寛いでいる家主。そこに通されると、わたしの背後から甲高い聞き覚えのある声が響く。
「拓ちゃん、アイスコーヒーでいいのぉ?」
わわ、ミヨちゃんだ!
わたしは心臓がバクバクし、思わず三つ編みがモフモフにつくまでうつむいてしまった。
ほどなくアイスコーヒーが運ばれてきた。
「はい、どうぞ」
衝撃! ミヨちゃんが主婦をしている!(当たり前だ)
目の前にいる家主よりも、主婦のミヨちゃんという現実に衝撃を受け、大緊張で、もうその後のことはよく覚えていない。
それでも、あの瀟洒な邸宅に響き渡る美代子夫人のあの可愛い声と、モフモフの白い絨毯とアイスコーヒーでもてなす優しくちょっと小慣れた手つきが忘れらない。

それから、わたしも芸能界で仕事をするようになり、なぜだかご縁あって、お食事に誘っていただいたり、同じ事務所の先輩後輩という間柄にもなった。
事務所の忘年会や祝賀会などで顔を合わせることもあり、励ましの言葉をかけてくださったりもする。
わたしにとって、美代子さんは、時には一緒にカラオケで『赤い風船』を歌う、お茶目でおしゃれで心根の良い、都会の匂いがする女という存在なのである。
ある日、六本木ヒルズ前で信号待ちをしていたとき、見覚えのある姿が目に止まった。なんと美代子さんご本人だった。
何をしているのかはわからなかったが、大勢のひとびとに混じって都会の雑踏に佇み、何かを訴えている美代子さんの姿は、なんだか気迫にあふれ、勇敢で頼もしくすらみえた。
あとで本人に聞くと「あれは、動物愛護関連の署名活動。あのときだけで10万以上集まったの。動物愛護法案の改正。悪徳ペットショップの問題、ペットの大量生産も酷いの。繁殖業者の免許制。野良猫の殺処分問題。で、現在はね……」と、動物愛護について矢継ぎ早に語り出す美代子さん。
まるでひとが変わったようにいきなりエンジンがかかり瞬速でトップギア。
爆音と共にアフターファイアーがマフラーから爆発しそうなくらい。動物愛護活動に真摯に取り組み、愛犬や動物について顔をほころばせながら語る美代子さんの愛情の深さに、わたしもホッコリするのである。

沖縄国際映画祭でお会いした際、美代子さんは撮影までのあれこれを振り返り希林さんとの裏話を語ってくださった。
主演でしかも詐欺師の役、「自信がない」と言ったら希林さんから「動物愛護の話をするときの、あのミヨちゃんでいいのよ。まるでひとが変わったように生き生きと話しているじゃない」と返されたそうだ。
自分の気付かないところへ光を当ててくれる先輩の言葉だった。
そういえば、わたしが子宮がん闘病記を出した頃だったと思う。
あるとき、いきなり「内田です」と電話がかかってきたことがあった。
内田という知り合いはいないし、一瞬驚いたが、「ふふふ、わたしよ」の声ですぐに希林さんだとわかった。
用件は推奨する本『明るいがん治療』(植松稔著・三省堂)をあなたもぜひ買って読んでみて、気に入ったら世の中に伝えてほしいとのことだった。
電話を切ったあとほどなくして、また電話が鳴った。
「あ、よりちゃん浅田です。今、電話いったでしょう、希林さんから。もう電話番号を教えろ教えろって何度も聞くから断れなくて。よりちゃんの電話番号教えちゃったの、ごめんね。突然電話なんかしたらびっくりするからやめた方がいいよって言ったんだけど、すぐに教えたいってきかないのよ。ごめんね」
電話口の口調が『寺内貫太郎一家』のミヨちゃんのまんまだから、わたしもついニンマリしてしまう。

映画『エリカ38』では、樹木希林という先輩から大きなギフトを受け取った「女優・浅田美代子」の煌めきと同時に「女の業」というものを感じずにはいられなかった。
ちらっとのぞく浅田美代子の「素」もいい。
あの曖昧な「素」の瞬間。予測できない、「素」になる瞬間というもの。
〝隣のミヨちゃん〟としてお茶の間に舞い降りた美代子さんは、希林さんの導きによって、つるりと心が裸になった姿で現れた。
そんな美代子さんをわたしは今まで見たことがない。
これこそが、希林さんの狙いだったのではないだろうかと思うのだ。
『赤い風船』の歌詞じゃないが、優しい歌を歌いながら寄り添う希林さんと美代子さんの姿を、ぜひ劇場で見てほしい。(女優・洞口依子)