【夢酒場】昭和の落とし物のような長屋横丁には 飛び出した息子の帰りを待つ老夫婦がいた

 酒場好きの男友達と「あぶない横丁刑事(デカ)」と称し、横丁探検にはまっていたことがある。われわれが目指すのは、どことなく怪しげで活気がなく寂れた店だ。

 ある夜、訪れたのは昭和の落とし物のような長屋横丁。

 『やきとり』というひび割れた木の看板。扉の格子もところどころ外れていたが、中の電気はついている。われわれはときめいた。

 「もし居づらかったら(or危険を感じたら)、いつもの鼻を触るサインを」と私。

 「了解!」と相棒。深呼吸を一つし、きしむ戸をゆっくりと開けた。

 誰もいなかった。神棚とその横にはほこりをかぶった熊手、狭いL字のカウンターには無造作に積まれた古雑誌。壁には変色し読めなくなった品書きがあった。

 

イラスト・伊野孝行

「こんばんはー」相棒が呼びかける。階段がきしむ音がし、奥から化粧っけのない痩せたおばあちゃんが現れた。われわれを交互に見ると、「えっ?」とおびえたように言った。

 「二人、いいですか」「あれまあ……じゃあ」と言って、おばあちゃんは厨房をおろおろと動き回った。まだ準備中だったか。

 「ビールお願いします」

 「えっ」がまたしても。おばあちゃんが薄いまぶたを見開いた。

 「お酒ならあるんですけど……」

 「じゃお酒を」

 カウンターに座ると、割り箸とぬか漬けが出た。「おとうーさん、お客さん……が。お酒」彼女が上に向かって叫んだ。間もなく爆発した寝癖頭の老人が一升瓶を抱えて現れた。パジャマだ。彼は新しい一升瓶の栓をぬいた。「口開け、一番うまいから」。なぜパジャマなのか、なぜビールがないのか、色々気になるがとりあえず言う。

 「焼鳥をおまかせで」

 

イラスト・伊野孝行

「えっ……」またしても戸惑うおばあちゃん。驚くのが癖なのかもしれない。彼女は間もなく冷蔵庫から鶏肉を取り出すと、骨張った指で串打ちを始めた。そこからか……。焼き場に火が入ると、あうんの呼吸で老人が何かを手渡した。古いドライヤーだ。おばあちゃんはスイッチを入れると、ブゥーーン! 串を並べた焼き場に熱風をあてた! 低く燃えさかる炎。型破りな料理法におののくわれわれ。

 「こうすると早いから。昔、オレが発明したの」と老人はにこやかに言った。

 アジシオをふっただけの焼鳥の味は悪くはなかった。が、色んな意味で面食らい、われわれは同時に鼻をさわった。撤収のサインだ。

 と、その時。おもむろにおばあちゃんは食器棚からあんパンを取り出した。「少し焼くとおいしいから」。間もなくトースターからチンという音がし、香ばしいパンの皿が前に置かれた。「食べて。他に何もなくて」。わけがわからない。

 明日の夫婦の朝食と思われた。首をぷるぷる振る私に、老人は唐突に言った。

 「息子、絵描きなんですよ。跡継ぎはいやだって飛び出したきり。どこを放浪してんだか」「意地で店の明かりをつけてるの。もう本当はやめたんですけど。たまに人が来ると一瞬息子かって」びっくりついでに受け入れてしまうのだろう。おばあちゃんは力なく微笑んだ。

 え……っ。今度はこちらが驚く番だった。店は気まぐれ営業というか、とっくに閉店していたのか。御会計は二千円だった。「良かったらまたどーぞ」パジャマの老人が陽気に言った。「ではまた」と口の中で言う。

 もう行けなかった。あぶない横丁刑事は、息子の帰還をただ祈った。

 (エッセイスト・さくらいよしえ)

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