【明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年】 No.181

▲弾痕が残る黒門(東京都荒川区)

(6月19日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

砲撃と銃撃

 戦闘が始まった。

 彰義隊は、黒門口近くの山王台に大砲二門を据え、東征軍に砲撃を加えた。

 ここで450の隊士の指揮を執るのは、頭取並の酒井宰輔である。ここには、彰義隊の約半数の人員が配置された。

 応戦する薩摩軍は、激しい砲撃を受け、死傷者が続出した。 

 この時、以前、山岡鉄舟とともに、駿府へ同行した益満休之助も傷を負い、それが元で帰らぬ人となった。

 薩摩軍は反撃した。彼らは、山王台に相対する、上野小路にある雁鍋という店の2階から銃撃を始めた。この攻撃により、彰義隊側にも多くの死傷者が出た。

 だが、薩摩軍の他、友軍の動きは鈍く、熊本藩の砲撃によって薩摩兵が負傷するということもあった。東征軍も連携が取れていなかったのである。

 この時のことを、後に西郷隆盛は大久保利通に語っている。

 「官軍といっても、本当に戦う気持ちがある藩は少ない。頼りになるのは長州藩のみである―」

 その長州軍は、寛永寺の背後にあたる谷中門へ向かっていた。だが、ここは起伏がある不利な地形であった。

(続く。次回は7月3日付に掲載します)

© 株式会社サンデー山口