川井久雄(仮名、裁判当時54歳)がタクシーで交番に乗り付けたのは深夜3時過ぎのことでした。交番にいた警察官に彼は、
「強盗してきた」
と告げました。
左手にはカッターナイフ、そして右手には1枚の百円玉を握りしめていました。警察官が話を聞くと、手に持っていた百円玉はタクシーの運転手からカッターで脅し奪ったものだとわかりました。
彼が起訴されたのは強盗罪でなく恐喝罪でした。
「駅前で客待ちをしていたら被告人が乗り込んできました。タクシーに乗り込むとすぐ『100円ちょうだい。10円でもいいや。強盗です。』と言われました。見ると被告人は手にカッターナイフを持っていてカチカチ音を鳴らしてしつこくお金を要求されました。車内に防護板はありませんでした。今は思い出して恐くなることもありますが、当時は怖いとは思いませんでした。とりあえず百円玉を手渡すと『交番に行って』と指示されたので言われた通り交番に行きました。だいたい50メートルぐらいの距離です」
被害者が供述する事件の全容を聞くかぎり、『強盗』という言葉から連想されるような凶悪な事件ではありません。人を傷つけたりお金を奪い取ろうとするような意思を感じることもできません。そこにあるのは、ただ捕まりたいという意思だけでした。
「事件前に酒を呑んでいて事件のことは正直はっきりとは覚えてません。大変なことをしてしまったと反省しています」
証言台でうなだれながら話していた彼は、外見はどこにでもいそうな普通の人でした。今回の逮捕以前に前科も前歴もありません。
「酒は毎日呑んでました。犯行時は普段よりたくさん呑んでしまっていたと思います」
飲酒の影響で普通の精神状態ではなかったようです。
「酒に逃げてしまっていました」
そう話す彼に検察官は問いかけました。
――何から逃げていたんですか?
「将来のことを考えたくなくて、考えるのが不安で怖くて、酒を呑めば考えずに済むので酒に逃げました」
彼は高校中退後、ずっと電気工や鉄筋工などの職に就いてきました。肉体労働ばかりです。若い頃はそんな仕事も平気でこなしていましたが、年齢を重ねるとともにだんだん体力は衰え身体のあちこちが痛んだり思うように動かなくなっていきました。
50歳を過ぎてからは仕事を続けることができなくなった彼は退職を余儀なくされ、その後は貯金を切り崩しながら生活していました。
次の仕事は探していなかったようです。
探さなかった理由は裁判では触れられませんでしたが、おそらくもうそんな意欲も湧かなかったのかもしれません。
30年以上も身体を動かす仕事しかしてこなかった人が、いざ身体が動かなくなってしまった時に意欲的に次の仕事を探すことなどそうそう出来ることではありません。
「先を見ると不安ばかりでした。仕事を辞めてからは毎日のように酒を呑んでました」
彼の生活を支えてくれる人は誰もいませんでした。婚姻歴はありましたが妻はもう亡くなっています。離れて生活している娘もいますが「食べていくのもやっとの生活」をしている彼女を頼ることはできませんでした。
彼の生活は日に日に崩れていきました。
やがて貯金も底を尽きました。サラ金で100万円の借金を作ってしまいました。
生活保護を受けようとは思っていたようですが、役所に申請の手続きをしに行くことはありませんでした。
「もう刑務所に入っちゃおう、と思いました」
そうして自暴自棄になった彼は被害額たった100円の『強盗』事件を起こしてしまいました。
今後、彼は弁護人に紹介された自立支援センターで生活の立て直しをはかるようです。
「もう犯罪には手を染めません」
と言って裁判官に向かって頭を下げていました。
彼が感じていた将来への不安や恐怖、それは誰もが抱えているのではないでしょうか。言い換えれば、誰もが彼のようにカッターに手を伸ばしてもおかしくない、今の社会はそういう場所なのかもしれません。(取材・文◎鈴木孔明)