第八十二回「自分の住む世界」

今日も一日鬱っぽく過ごしましたが、友達(可愛い)の一言で急上昇したので友達は必要だなぁ…としみじみ感じております。

一体何が私自身の心の中を鬱にするのか、原因は長年わかっていないのですが、物心ついた頃から嘆いていたので私という人間はきっとそういう「思い悩む」ということが大好きなタイプなんだと思います。

小学生の頃、フランスから帰国子女として転校してきた友達がおりまして(ひょっとしたら昔、コラムで書いたかもしれませんが)、その子が思えばいわゆる私の初めて出会った「メンヘラの友達」だったかもしれません。

なぜその子を「メンヘラ」認定したのかと言うと、二人で夕刻、学校の帰り道に空を見上げながら「人って何のために生まれてきたのだろう…」「私たちって何億分、いや何兆分の確率で出会えたんだよね、それってさ、奇跡だよね…(遠い目)」とか真顔で語り合う仲だったからです。

その子もとても生きづらそうで、当時、まだリスカの概念が少なかったのに小学生ながらにリストカットしていたし(かく言う私も自傷行為に勤しんでおりました)、クラスメイトからは「Aちゃんは嘘つきだからあんまり仲良くしないほうが良いよ」と忠告もされたし、どうやら両親が不仲だったようで、いろんな複合的な理由からそのように捻くれて育ってしまったんだろうなと今となっては思います。お互いに「傷」を見せ合ってはこの世界を恨んでいました。

小学生や中学生くらいの時って、学校や家庭が世界のすべてになってしまうから、どちらかや両方が破綻してしまうとそれだけで自分自身の世界がなくなってしまうんですよね。大人になった今、決してそんなことはないって言えるのだけど、若さの怖いところは経験や世界が浅いがゆえに「それしかない」と思い込んでしまうところだと思います。

逆の考え方もあります。狭すぎるがゆえに勘違いのまま謎の確信を持ち続け、それがいわゆる潜在意識への働きかけになり、妄想が具現化する場合もあります。私の人生なんかそれがかなり顕著なのではないかと思ってます。根拠のない自信のみで生きてきたなぁって思うことがたくさんあります。

しかし、ふとした瞬間にその「根拠のない自信」が揺らぐことがあります。なぜならもともと根拠がないからです。物事にはすべて理由があるというのが通説なので、「根拠のない」ものに対して突然価値を失ってしまう時があるのです。大した実力や技術もないくせにやってきているような気になってしまうことが多々あります。

運が良い、という言い方もできますね。運だけで事がいろいろ進んでいるのも否めないし、「運も実力のうち」という言葉もあるし、だけどその割に特にもの凄く大きい運ではない気もしたり、自分自身の軸がブレまくる時があります。

そういう時、私を元気づけてくれる存在が今周りにいる「友達」であり「応援してくださるファンの皆様」なのです。と言うか、身近にいる人たちはみんなそうだと思ってます。

よくわかんない人の言葉にいちいち傷ついている暇はないなってこのところ痛感します。だって自分の中でその人の存在がどれだけ大きいかが重要なわけで。よく知らない人に勝手にジャッジされる職業ですが、そういう人たちとは深い濃い関係には決してならないし、嫌な評価でも関心を持たれるだけマシかなぁと思います。数秒でもその人の人生に入り込めたなら。

話がずれました、と、まぁもっと早くにそういうことに気づいていたら良かったと思いつつ、これが私の住んでいる世界なんだなと納得するしかなかったりします。

だからもし、今人間関係などで悩んでいる十代や二十代前半の子がいたら聞いてほしい。絶対的にもう少し大人の年齢になったほうが世界が広がるし、絶対に楽しい。今あなたたちの住んでいる世界は自分の住む世界のほんの自分の部屋くらいの小さなスペースで、まだ外になんて出ていないと思う。

少なくとも私自身は、小さな自分の部屋から外に出た今のほうが楽しい。もう少し早くいろんなことを始めていたらと毎日頭をよぎるけど、すべてはタイミングなのできっと何かがもう少し早くても今のように楽しくなかったかもしれないと思うようにしています。

いつでも「今」が最良のタイミング。世界は広すぎて、眩暈がするけど、どこまで行けるか楽しみでなりません。

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