【高校野球】超美技で甲子園を沸かせた名二塁手の今 認め合う仲間 楽天・浅村との絆

2008年の夏の甲子園で活躍した常葉学園菊川の町田友潤さん【写真:安藤かなみ】

08年夏の甲子園準V 常葉菊川の二塁手・町田友潤さん 名実況も生まれる

 甲子園を沸かせた“伝説の二塁手”。高校球児離れしたフィールディング、巧みなグラブさばき、正確無比な打球判断――。「セカンドに打ってしまえば望みはありません」という名実況も生まれた。常葉学園菊川(静岡)の町田友潤内野手のプレーに野球ファンは魅了された。2008年の夏の甲子園では決勝で大阪桐蔭と対戦し、数々の名プレーでその名を全国に轟かせた。町田さんの今に迫った。前編・後編でお届けする。

「超アウェーでしたよ」と当時を振り返る。2008年の夏の甲子園決勝。相手は大阪桐蔭ということもあり、球場全体が大阪桐蔭を後押しする雰囲気の中、町田さんは華麗な守備で観客の度肝を抜いてみせた。「自分でもああやってできると思わなかった。身体が勝手に動いていました」と本能でボールを追いかけ、スーパープレーを連発した。

 そんな町田さんが「あいつは天才だと思います」と話すのは、夏の甲子園決勝で対戦した大阪桐蔭の遊撃手・浅村栄斗(楽天)だ。

「ガツガツしているし、動きがいい。ダッシュもいいし、ボールに入るまでのスピードもあるし、送球も早い。本人は高校生の時には送球に悩んでいたみたいですが、周りから見たらそんなことなかった」と当時の浅村の印象について語ってくれた。

 今は一ファンとして、応援している。気が付けば浅村の試合結果や成績を追っている。西武、楽天と渡り、一戦で活躍する同級生の頑張りは、野球と離れ仕事をしている自分の励みになっている。

 浅村は高校卒業後プロの世界に飛び込んだが、町田さんは「プロに入って活躍しないといけないと考えたときに、今の自分の力では無理だと思った」とプロ志望届を提出することなく、大学進学を選んだ。複数の大学からの誘いもあったが、自身が高校時代に憧れたという上本博紀(阪神)が在学していた早稲田大学に進学。しかし木製バットに対応しきれないまま打撃面で劣等感を抱き、一年を待たずに退部した。

「自分を過大評価していたんだと思います。高校で活躍したとはいえ、大学はとてもレベルが高かった。自分が思っていた『このくらいはやれるだろう』というのと、評価の溝が埋まらなくて、うまくいかなかった」

楽天・浅村も認める「野球センスがすごかった」「高校時代憧れていました」

 野球部を辞めたものの、野球への思いを断ち切れずにいた。ある日、常葉菊川の同級生で、社会人チームの強豪・ヤマハ野球部に入社した戸狩聡希投手から一本の着信を受け、同野球部への入部を勧められた。「気持ちを聞かせてほしい」と伝えられた町田さんは、両親や常葉菊川の森下監督(当時)に相談したと言うが、心の中はすでにヤマハ入社を決意していた。

「森下監督には『やった方がいい』と言うよりも、『やれ』と言われました。自分もその気でいたので、そういう返事をしてくれるだろうなと思っていました」

 早稲田大学を中退後、再びグラウンドに戻った町田さんだが、今度は高校時代から抱えていた慢性的な腰の痛みに悩まされた。満足のいく結果が残せないまま、4年でヤマハ野球部を退部。現在は浜松市内で障害児の療育施設を経営する傍ら、母校・常葉菊川高校野球部の指導も行っている。

 2008年の夏の甲子園決勝で対戦し、その後高校代表でも町田さんと共にプレーした大阪桐蔭出身の浅村に当時の印象を聞いたことがある。

浅村「高校生は基本の動きをやる事に徹するが、彼は野球センスがすごかった。プロ野球みたいな華やかさがプレーにあったが、それは教えられてできるものではない。よく見るとそれは基本もきちんとできているからこそのプレー。高校時代は憧れていました」

 そのことを町田さんに伝えると、「褒めすぎですよ」と照れ笑いを浮かべていた。ファンだけではなく、一流のプレイヤーからも認められる名選手だった町田さん。華々しいだけの野球人生では決してなかったかもしれないが、町田さんが駆け抜けたあの夏は高校野球を愛する全ての人の胸に鮮明に焼き付けられている。(安藤かなみ / Kanami Ando)

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