
まだ、梅雨が明けぬ東京。
お天道さまが恋しいところだが、雨に濡れた黄昏時の東京も趣あり。
ということで、東京メトロのCMの石原さとみじゃないが「ファインド・マイ・トウキョウ」してみようと、雨に濡れた佃島と月島を巡ってみた。
佃島へは、地下鉄有楽町線か大江戸線の月島駅で下車。
「新橋から佃島まで船でくるなんて、ちょっと乙なもんだろ」
そんな台詞を吐きながら船の艪を漕ぎながらやってくる三橋達也を思い出す。
『愛のお荷物』(1955年 川島雄三監督)の一場面だ。
映画には、佃渡しがまだある頃の佃島の暮らしぶりが活写されている。
台詞通り、新橋から舟を漕いで佃島まで来るなんて、とっても乙だと思う。
しかも三橋達也が居候している家は佃煮屋で、現在もその佇まいは変わらず残っている。
でもわたしの目の前に広がる佃の風景はそんなんじゃない。
タワーマンションと船泊まり。
新旧が入り交じる、現在の佃島。

佃島は映画人をも魅了する。
私もテレビドラマのロケ地で通っていた折り、佃の風情にちょいと惚れてしまったというのもあるだろう。
しっとりとよい塩梅で空気が湿っていて、どこか懐かしさを感じる住宅の軒。
住居の間の細い小径を歩いていると、軒先には必ずといっていいほど植木鉢が並んでいる。手入れの行き届いた鉢に咲く季節の花たち。
佃島といえば、佃煮。
その始まりは江戸時代にさかのぼる。
本能寺の変で、徳川家康は大阪の堺から命からがら逃げた。
その時、家康の命を救ってくれたのが、摂津の佃村(現在の大阪府大阪市西淀川佃)の漁師たちだったという。
家康は未開の地だった江戸のまちづくりに、摂津の佃村から漁師たちを江戸へ移住させた。当時の江戸には熟練した漁師も少なく、食料を確保するのにも苦労していたらしい。
移住してきた摂津佃村の漁師と家康との関係は、まさに江戸の礎の一つを築いたと言ってもいいだろう。
佃島にある住吉神社に行けば、その痕跡を感じることができる。
家康の御霊が祀られたこの神社の歴史も江戸の頃。
趣のある水盤舎。目を凝らすと、当時の漁師たちの様子が見事な彫りによって再現されているのに気付く。
神社の境内には、「鰹塚」や大正時代にできた煉瓦造りの神輿庫があり、鳥居につけられた珍しい陶製の扁額が美しい。
住吉神社の朱色の鳥居は、隅田川に向かって建てられている。
ここから上がってくる海の神様。
その昔、ここには渡し舟があったので、川を渡ってお参りするひとびとのためにこの鳥居が造られたのだろう。
住吉神社は佃、月島、勝どき、晴海、豊海の鎮守の神。
神社の例祭は夏で、3年に一度、本祭りがある。(去年が本祭りだった)
隅田川を守るパワースポットでもあるのだろうか、この神社を詣でただけで、私はなんだか清々しい気持ちになれた。

ちょうど、東京は盆の入り。
無形文化財でもあると言われる佃の盆踊りというものがあるそうなので覗いてみた。
「念仏踊り」とも呼ばれるその踊りは、まさにお盆にかえってくる精霊の供養。
精霊そのものを踊っているような素朴な踊り。足を引きずる様は、まるで死者がよみがえった姿にも見える。
その太鼓のリズムとゆったりと不思議なメロディーにのせた詞、掛け声。
派手な盆踊りの「お祭り感」ではなく、無常感にも似た哀愁を感じさせる。
佃煮の匂いも漂う、なんとなく“のら散歩”するにはちょうどよい佃島。
川のほとりにあるかつての渡し場から佃大橋の向こう、築地や東銀座の方を覗く。川を渡る、橋を渡るという行為に色気を感じるのは私だけだろうか。
三島由紀夫が書いた『橋づくし』という小説は、花柳界の女たちが中秋の名月に、七つの橋を渡って願をかけるという話だった。
そこに出てくる三吉橋。
たしか、私も三吉橋を渡って佃島に入ってきたはず。
この三吉橋は、映画『女が階段を上がるとき』(1960年 成瀬巳喜男監督)にも出てくる。
主人公の高峰秀子は、銀座のバーの雇われママ。
仲代達矢が、銀座の女をスカウトするマネジャーの男を演じる。
このふたりが、昼間の三吉橋に佇む場面がある。
この橋の向こうにある銀座という夜の世界。
さらに、三吉橋から新富町、明石と抜けて、現在は佃大橋を渡れば佃島だが、まだ渡し船があった頃を想像する。ここで映画のある場面のレイヤー(層)を入れてみる。
ある日、高峰秀子がクラブで血を吐く。そして療養する場所が、なんと佃島の実家。
渡し舟のワンカットをはさみ、住吉神社のあの鳥居も出てくる。
実家にいる彼女をクラブ経営者のママが見舞う場面。
その時のママの台詞がいい。
「佃島なんて初めて来たけど、この辺はなんだか昔の東京の名残りみたいなものがあるわね」なんて言ったりする。
水商売で夜の蝶となる女たちが、まるで埋め立てられた東京の水の記憶をたどる魚のように、銀座の街を、男の間を、行ったり来たりする。
なんといっても、高峰秀子が美しいのでぜひおすすめしたい。
佃をあとに、腹ごしらえに月島へ。
いまや「もんじゃタウン」と呼ばれているようだが、小銭を握りしめて食べるような駄菓子感覚でもんじゃを楽しむというよりは、ディナー感覚で楽しむ店がほとんど。
料亭のような出汁が利いていたり、米粒が入った「イカスミのパエリアもんじゃ」なんてものもある。

月島は、佃に比べれば歴史が浅い
明治時代に佃の海側の砂州を埋め立てた人口島だ。
とはいえ、こちらも佃同様に昔の風情を感じられる濡れた小径や住居が残っている。
路地裏の店に、のらのら入ってみる。
「能登」という名のその店は、小股の切れ上がった系のママが営むバー「ききょう」からすぐ。二階の座敷でもんじゃ焼きなんぞをつつきながら、柴又ラムネで一杯やるもよし。

「ききょう」の並びには「岸田屋」という大衆酒場の名店もある。
看板の出ていないような隠れ家で、小粋にワイングラスなど傾けるのもいい。
月島には、もんじゃ焼きのみならず味わい深い店がたくさんあるので、のらのら歩きながらはしごするのも面白い。
それにしても、東京の街の変化は江戸、明治、大正、昭和ときて、やはり戦後から現在が一番著しいと思う。
普段の視点に過去の記録を重ねてみる。
たとえば、最近、東京の虎ノ門あたりを歩いていると、なぜかまがまがしい気持ちに駆られるときがある。
太平洋戦争が始まる前の、いや戦時中かもしれない。
終戦直後のGHQの時代かもしれない。
まだ虎ノ門に満鉄本社ビルがあった頃。
さらには、終戦後GHQに接収され米国大使館別館としての顔もあった時代。
過去と現在はねじれた時空のトンネルで繋がっていて、そこから過去のひとびとが今の時代に現れまぎれているのではないかと想像してしまうことがある。
例えば、東銀座から築地へ、新富町から佃島へと向かう時、いつもの風景に過去の記録(映像でも写真でも脳内で再生できる記憶にあるもの)を、レイヤーとして重ねてみることで、現在と過去の比較、あるいは同一視することも、可能ではないだろうか。
そんな古い記録から未来を眺める。
歴史を知るということ、さらに想像する力は大事だ。
佃島から月島へ。
新旧入り交じる街並みと隅田川越しに明石、築地と望むのもまた趣あり。
夏なので納涼屋形船もまた乙でしょう。
お江戸の夏の風物詩・隅田川花火大会もこれから。
あなたのトウキョウをみつけてはいかが?
(女優・洞口依子)