【あの夏の記憶】「甲子園は人を変える」―814球を投げた三重高左腕の今 球数に宿る高校球児の思い

三重高校時代の帽子を被り当時を振り返る今井重太朗さん【写真:小西亮】

甲子園で歴代4位の814球を投じた今井重太朗「甲子園だから、あんなにも投げられた」

 夏の甲子園で、歴代4位の球数を投じた左腕を覚えているだろうか。2014年、三重高の準優勝の原動力となったのが、エースの今井重太朗投手だった。決勝までの全6試合に先発し、約2週間で計814球。その後、プロ入りの夢は叶わなかったが、社会人になった今も軟式野球の強豪でプレーを続けているのは「甲子園のおかげ」だと言う。球数制限が盛んに議論されている今、マウンドに立ち続けるエースの複雑な思いもひとりの元球児として代弁した。

 ただ夢中だった。炎天下、大観衆、最後の夏。「そんなに投げた気がしなくて。疲れも思ったよりなかったですね」。23歳になった今井が、5年前に記憶を巻き戻す。14年8月25日、大阪桐蔭に3-4で逆転負けを喫した決勝。試合後、クールダウンのキャッチボールをするベンチ前で、必死に帽子のつばで涙を隠した。

 8月13日の初戦から2週間足らずの快進撃を振り返り「運、ですかね」と笑う。広陵との1回戦は9回に2点差を追いつき、延長11回は2死満塁から押し出しサヨナラ。準々決勝の沖縄尚学戦では、「琉球のライアン」と呼ばれた大会屈指の右腕・山城大智投手から8点を奪い、今井自身も3点適時二塁打を放った。2年秋から公式戦では無安打だったといい「そんな僕が打つなんて、運が良かったとしか考えられません」と、また笑った。

 当時も今もあっけらかんとした性格は変わらないが、マウンドで見せた熱投は「運」なんてひと言で片付けられるものではなかった。6試合中、1完封を含む4完投。3回戦以降は中1日で、決勝は連投で迎えた。「最後だから、やりきりたい」。その一心が原動力だった。登板前夜は必ず、体のキレを出そうと宿舎の地下駐車場でダッシュの繰り返し。寸暇を惜しんでケアや準備に没頭した。チームメートたちも、時間があればいつも以上に道具の手入れに励む。そんな行動の積み重ねが、運も引き寄せたのだと疑わない。

「人って変わるんだなって。甲子園っていう場所は、人間を変える力がある。甲子園だから、あんなにも投げられたんだと思います」

「責任を果たしたいって気持ちがあるのも事実」

 周囲は「鉄腕」だと言ったが、今井自身にその意識はなかった。中学時代は肘を故障して棒に振った分、三重高入学後は投げることが楽しくて打撃投手をすすんで引き受けた。1日150球超の日々が、素地をつくってくれたと思っている。3年になり、三重中京大時代に則本昂大投手(現楽天)を育てた中村好治監督から無駄のないテークバックを教わった。「張りや疲れが出なくなった」と理想に近づいた結果が、814球を生んだ。夏では早実・斎藤佑樹の948球(06年)、金足農・吉田輝星の878球(18年)らに次ぐ歴代4位の記録だ。

 それだけで評価される数字だとは思っていない。球児の故障防止の観点から、球数制限の議論が熱を帯びる時代の流れとは逆行することも分かっている。「確かに、球数制限は必要なんかなとは思います」。ただ、背番号1を担ってあのマウンドに立った時、すんなりと数字で気持ちが割り切れるのか――という思いもある。

「もし球数制限が100球だったら、僕は甲子園で1試合も投げ切ることができなかったわけで……。エースにとって、球数ってチームへの貢献度を表すものでもあると思うんです。ケガをしないことが一番ですけど、責任を果たしたいって気持ちがあるのも事実だと思います」

 今井は高校卒業後、4年後のプロ入りを目指して愛知の強豪・中部大に進学。1年春から愛知大学1部リーグで登板し、全日本大学選手権にも出場した。通算15勝を挙げたものの、登板機会が多かったことも影響したのか3年冬に神経障害で左肘を手術。最終学年はほとんど投げられず、結局社会人の強豪からも声がかからなかった。

 それでも、野球をやめる選択肢はなかった。「甲子園のあのマウンドに立った時から、野球を続けるのが宿命になった気がして」。大学を卒業した今春、軟式野球全国大会で優勝経験もある地元・愛知の和合病院を新天地に選んだ。「再来年の21年に三重で国体があるので、そこまでは続けたいと思っています」。甲子園準V投手に育ててくれた地で、新たな節目を迎えたい。(小西亮 / Ryo Konishi)

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