今月の視点 日本は問題の本質を見失なった画一化社会になってしまったのか こちらミャンマーは雨季の真っ只中にある。しかし、例年より雨量が少ないように感じるのは当方の思い過ごしだろうか。これまでなら激しいスコールが日に何回かやってきて、その合間に晴れ間が覗いていたが、今年はお天道様があまり顔を出さない。

こちらミャンマーは雨季の真っ只中にある。しかし、例年より雨量が少ないように感じるのは当方の思い過ごしだろうか。これまでなら激しいスコールが日に何回かやってきて、その合間に晴れ間が覗いていたが、今年はお天道様があまり顔を出さない。

今月の視点 日本は問題の本質を見失なった画一化社会になってしまったのか

無差別殺傷事件が多発する日本 銃以外の危険物に無頓着な社会

こちらミャンマーは雨季の真っ只中にある。しかし、例年より雨量が少ないように感じるのは当方の思い過ごしだろうか。これまでなら激しいスコールが日に何回かやってきて、その合間に晴れ間が覗いていたが、今年はお天道様があまり顔を出さない。日本型の陰鬱な梅雨の様相になっているようだ。
憂鬱といえば、日本はもろくでもない事件ばかりが相次いでいる。犯罪発生率は年々下降傾向にあると警察庁は発表したが、川崎の児童襲撃事件や「京アニ」のガソリン放火事件など、今年は無差別のやりきれない殺傷事件が非常に目に付く。
前号のこのコーナーでも指摘したが、日本は拳銃以外の危険な殺傷力のある道具に甘すぎるのではないか。考えてみれば、車の所有者でもないのに、何でガソリンが必要なのか。なんら不審を持たずにこうも簡単にガソリンを売っていいものだろうか。
もし「京アニ」の事件の凶器が灯油か何かだったとしたら(むろんこれも起きてはならないことだが)、果たして34人もの犠牲者が出たかどうか、少なくとも逃げ押せる時間的余裕があったと推測される。それほどガソリンの爆発力は強烈であり、有毒ガスも多い。
今、我々日本人は国内外にさまざまな問題を抱えてはいるが、安定した日常生活にどっぷり浸かっていると、どうも危機意識が希薄になりがちだ。だから「まさかあの人が」、「まさかそんな事が」という後悔になってしまう。
もちろんどこかの国のように一億総監視社会になることは許されないが、少なくとも日々の暮らしの中で、どう考えてもおかしい現象は間々ある。そう思ったら我々一人ひとりが注意喚起し、少し懐疑的に考えていかないと、いつ何時災難に遭遇するとも限らない。

犯罪集団に加担という意識の欠如 低俗な報道を続ける日本のメディア

最近の日本でもうひとつ腹立たしいニュースが、例の吉本なる芸能会社の内輪モメである。当方は、あの芸人たちが辞めようが、謹慎になろうが、そんなことに関心はない。むろん吉本が崩壊しようが潰れようが、そんなこともどうでもよい。
問題の本質は、あの涙を流して記者会見した芸人たちは、間接的とはいえ、反社会的集団の宣伝に一役買い、金銭までもらっていたことだ。そのお金は紛れもなく、悪徳集団が詐欺したり、犯罪で手にした金だ。振込み詐欺なら、なけなしの預金を騙し取られたお年寄りや被害者が大勢いるはずである。
だから芸人たちが受領した金は一体どこへ行ったのか。すでに返却したのか、だとしたらどこへ返したのか。そのことをなぜまず最初に触れないのか。いや、触れるどころか、このことは真っ先に謝罪して説明すべきであろう。
そして受領した金銭を速やかに被害者救済団体を通じて返済すべきだったのではないか。もっと言えば吉本興業はこれに倍返しぐらいの見舞金を上乗せし、謝罪し、誠意と反省の意を表すべきだったのではないか。その上で幹部全員が辞任するぐらいの反社会的な重大事件である。吉本という芸能組織が、過去何度も所属芸人が反社会的組織との癒着が露呈し、世間から糾弾を受けたことを考えればなおさらである。
はっきり申し上げよう。この芸人集団や会社は、自分たちの保身や体裁を取り繕うことしか考えていない。虎の子を盗られて途方に暮れるれている詐欺被害者の方々のことなど脳裏の片隅にもない。
日本のメディアもテレビのワイドショーとやらも然りである。人気芸人が涙を流して辞める辞めないのと騒ぎ立てる様や会社の体質が露呈したことなどにばかり焦点を当て、ことの本質を見失ったくだらん報道に終始している。一社くらい核心を突いた指摘と報道あってもいいだろうと、当方は非常に落胆した。
吉本という会社にとっては闇営業かも知れぬが、そんなことは世間には関係ないことだ。極論すればこの芸能会社と所属人間たちは、反社会的集団に加担した連中だと言ってもいい。
そんな認識すら持てないトップも論外だが、何を偉そうに感違いしてるのか、この芸人たちは大半が思慮の浅い人間ばかりで、芸ばかりかその資質の低俗さにもうんざりする。

パターン化された画一社会の弊害 アナログ文化に惹かれる邦人たち

ミャンマーに暮らしている利点は、こうした聞きたくもないニュースや事件を意図的に遮断できることだろう。しかしあちらにいたらそうもいかない。目をつむり、耳をふさいでも、あちこちから日本語が飛び込んできて、常に感情を揺さぶられることが多い。
幸い、今のところミャンマーはこうした理解不能な無差別殺人や見苦しいゴシップ事件とは無縁である。国全体が拡散を繰り返し、欧米や日本のように集約され画一化された社会にはまだなっていないからだ。
物質文明が発達し、その究極の形が画一化社会といわれるが、このパターン化された社会からハミ出た、あるいは順応できなくなった人間たちが、そのうっぷんを晴らすために全く無関係の対象物にその不満の矛先を向けると、どなたかおっしゃった。
確かに、頻発する米国の銃乱射事件などを見ても、その動機がいまいち不明である。川崎や京都の悲惨な事件も同様である。そして事件が起こるたびに「犯人はなぜ罪もない人々を、、、」というコメントが発せられる。
日本ではゴミの出し方ひとつとっても、ルールに従わない者は批判される。音楽のボリュームでさえ、隣人たちへの配慮が必要な社会になっている。ましてやいい若者が昼間からぶらぶらしているだけでも、白い目で見られがちだ。「ほっといてくれ」と叫んでも、他者と異なった行動をしているだけでも奇異な視線にさらされる社会構造になってしまったのだ。その重圧やプレッシャーに耐えられなくなった人間が暴挙に出るのではないか。
ミャンマーではいい若者がぶらぶらしていても、外国人には特に不思議には見えない。それどころか、「仕事がないのか、気の毒に」という感情が先に立つ。何か祭事があると、大音響の音楽を鳴らしたトラックが街中を駆けめぐる。子供が寝つきそうな状態であっても、病人が安静を求めていてもお構いなしだ。むろん日本や欧米ならご法度だ。
しかし日本にも戦前から昭和20年代後半にかけて、「ちんどん屋」さんという音楽隊が街を練り歩き、耳にこびりつくような音楽を演奏しながら、開店告知やイベント宣伝などをしていた時代があった。まさにアナログ文化の極地であった。それから半世紀がたち、世はIT時代を迎え、現金不要のキャシュレス システムが浸透しつつある。そしてパターン化された社会の到来である。
ミャンマーもかっての日本のように拡散を繰り返しながら、いずれは集約され、画一化された国に向かうだろうが、現状ではまだまだアナログ文化の懐かしさがそこかしこに残されている。当方を含め、多くの日本人が惹かれる理由がここにあるのではないか。勝手をいえば、できればしばらくこのまま、急激に変化しないでいただきたいと願うばかりだ。

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