グレン・グールドの「ゴルトベルク変奏曲」はまるで遠藤周作の小説のようだ 1982年 9月 グレン・グールドのアルバム「ゴルトベルク変奏曲」がリリースされた月

ストリートピアノをご存知だろうか。町の公共施設などに置かれた誰もがひくことができるピアノのことだ。

少し前にピアノ売り場で道場破り的にピアノを弾き倒す動画をアップするユーチューブ作品をよく見かけたけれども、それとは違い堂々と演奏を披露できるピアノが最近、世界中色んなところに設置されている。

どこではじまったのかは定かではないが、現在、オランダでは駅や図書館やカフェやギャラリーなどでよく見られるそうだ。

ピアノでなければヨーロッパの地下鉄の構内や地下道には昔からストリートミュージシャンの音がどこそこと流れていた。

それがピアノときた。電子ピアノではなく本物のピアノ。持ち歩きのできないものなので、世界中のストリートキーボーディストたちは大喜びしているのではないだろうか。

日本でも都庁や駅、地下街など色んなところに広まりを見せているようだ。ちなみに都庁のピアノは草間彌生デザイン。

予期せぬところで出会う音楽はまるで魔法のように私を虜にすることがある。そもそも音楽そのものが魔法なのだけれど、角を曲がったらばったり!といった意外性がより魔術的なのだ。ストリートミュージシャンたちの音が溢れる町が増えればいいな、と心より思う。

さて、ストリートピアノを弾く人たちはどんな人たちで、どんな目的で彼らは弾くのだろう。ユーチューブにアップするために弾く人たちもいるだろうし、それこそ自分はこれだけ弾けます!と披露するための人もいるだろうし、また本当にそこの場所に居合わせたオーディエンスを楽しませたいと演奏する人もいるだろう。もしかしたら、有名になれるかも? そんな期待がある人もいるかもしれない。自分だけで奏でていた音を自分以外の存在にも披露したい、反応を知りたい。上達していく過程で人間は誰しもそう思うのかもしれない。そして演奏家は人前で演奏してこそ。大体の人はそう思っている。

だがそんな当たり前を覆すような、あるとき生演奏を全くやめてしまったピアニストがいる。それがグレン・グールド。既成概念から大きく外れた天才ピアニストである。彼のピアノはとにかく「違う」のだ。他のピアニストにはない独特さがあって、それが驚きと感動を与える。そして聴衆は馴染みの名曲に新たな魅力を発見するのだ。

しかし彼の代名詞とも言える『ゴルトベルク変奏曲』、さらに亡くなる前年に発売された1981年版となるとちょっと話しは違う。

彼は演奏だけに留まらず、風貌、演奏姿、演奏中の鼻歌、こだわりなどあらゆる面で異端と見られているのだが、この作品においては禁欲的で圧倒的なオーソリティーである。まあ、鼻歌入りだが。とはいえ、教科書的なのに限りなく魅力的。

グレン・グールドの『ゴルトベルク変奏曲』はある意味、遠藤周作の小説のようだ。遠藤周作の作品で使われる言葉は誰もが理解するものであり、その文章は水が高いところから低いところへ流れるように自然な運びなのに、どの言葉も文章も研ぎ澄まされた一手となり読者に迫ってくる。過不足のない佇まいをしているのに輝きに溢れている。

さらに読後に残るのは “共感” とは一線を画する自分の中に響く余韻。よい作品はよい意味で私たちを一人にしてくれる。

さらにグールドは『ゴルトベルク変奏曲』において、圧倒的スタンダードの地位を勝ち得たので、これまでの他の作品における鼻歌さえも市民権を得たような感覚さえする。いや、むしろ鼻歌がなかったらこんなにも人々に愛されなかったのかな。ただひとついえるのは、鼻歌がなくなったらこの作品がもっと良くなるとかつまらなくなるとかそういうレベルの作品でないということだ。グールドワールドを全身で楽しみたい。

このアルバムはグールドが亡くなった翌年の1983年にグラミー賞を受賞している。もし彼が生きていたとしたら、受賞に喜ぶまではなくても彼に否定的なオーソリティーに対し「そらみたことか」とアカンベーくらいはしたかもしれない。

さらに… グールドが今に生きていても、きっとストリートピアノには興味を持たないだろう。だがここで敢えて聴衆からの “ライブの期待” を拒絶した彼が、百歩譲って誰もいない町にポツンとおかれたピアノとだったらどう響き合うのか… という畏れ多い想像をしてみたけれど、ちょっとなんだか違う。やっぱり。

スタジオにこもって自分の求める演奏を追い続けた彼だけれど、そんな彼に誰も追いつけない、誰にも捕まえられない。こうかと思えば肩透かしを食らう。Mっ気のある方は是非『ゴルトベルク変奏曲』を聞いた後、他の楽曲も聞いてみてほしい。

カタリベ: まさこすもす

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