妻子4人の骨 鍋に抱え 平和祈念館が聞き取り  涙ながら亡き伯父の体験も

伯父の被爆体験を涙ながらに語る西川さん(中央)ら=長崎市、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館

 被爆体験の収集・公開に取り組む国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館(長崎市平野町)は1日、同館で西川サワノさん(90)=平間町=の被爆体験の聞き取りをした。西川さん自身に加え、家族を全員失った上、原爆症と思われる病気で亡くなった伯父、釘山鉄夫さんの体験も涙ながらに語った。
 きっかけは、4月に市が被爆者健康手帳所持者に送る書類に同封された、被爆体験を募る同館の文書。西川さんは1995年に厚生省(現厚生労働省)の被爆者実態調査で体験記を残している。だが、文書を読んで、自身と伯父の体験を記録してもらおうと同館に足を運んだ。
 16歳だった西川さんは、お手伝いさんとして住み込みで働いていた中川町(爆心地から3.4キロ)で被爆。夕方まで防空壕(ごう)に避難した後、その家の人と一緒に矢上方面へ向かった。「外に出ると空が真っ暗。世の中が黒くなったと思った」。知人宅に1泊し、実家のある平間町に向かった。
 一方、伯父の釘山さんは当時56歳。西川さんによると、あの日、釘山さんは立神町にあった三菱造船所で勤務。現在の平野町付近の自宅に戻ると、奥さんと子ども3人が亡くなっていた。翌日、荼毘(だび)に付した4人の骨を入れた鍋や鉄かぶとを両手に抱え、西川さんの実家を訪れた。働いていたほかの子ども3人のうち、1人は死亡が確認されたが、2人はいまだに行方が分かっていない。
 「絶対に戦争だけはするなよ」
 49年、釘山さんは死去。その直前、叫ぶように遺した言葉が、西川さんの胸に引っ掛かっていたという。同席した西川さんや姉の山中マサノさん(96)は「話してすっきりした。伯父さんも喜んでいるだろう」。西川さんの長女、高田久子さん(70)は「体験を直接じっくり聞いたのは初めて。伯父さんの遺言を忘れないようにしたい」と話した。

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