第7回 半世紀にわたる”旅”の回顧録 「人生、風まかせ、運まかせ」 後に芥川賞作家となり、選考委員もおやりになった青野聡さんが、コペンハーゲンの安下宿にいて、レストランで皿洗いをしていた。

後に芥川賞作家となり、選考委員もおやりになった青野聡さんが、コペンハーゲンの安下宿にいて、レストランで皿洗いをしていた。

第7回 半世紀にわたる”旅”の回顧録 「人生、風まかせ、運まかせ」

28年後に、編集者と作家の関係になった

後に芥川賞作家となり、選考委員もおやりになった青野聡さんが、コペンハーゲンの安下宿にいて、レストランで皿洗いをしていた。今考えれば驚きだが、むろんこの当時は想像することさえできなかった。
というより、慶応大学の仏文を出て、パリでしばらくフランス女性と恋に落ちて放蕩三昧だったという話を聞いて、ほかの同居人と違って最初は「少々キザな奴だな」と思っていた。しかし毎日、口角泡を飛ばすようにまくし立てる彼の熱き文学論を拝聴しているうちに、除々に青野さんに傾倒していった。わずか7歳年上の兄貴のような関係だったが、私はすつかりこの文学青年の弟子のような存在になってしまったのだ。
「君はサルトルを読んだことがあるか?マルクスはどうだ?何?、ない?。だめだ!、読みたまえ、あっ、それからフロイトの夢の分析も読め!。」
彼は矢継ぎ早に作家の名を上げて、半ば命令調に読破することを指示してきた。しかし当時17歳の私にとって、マルクスの資本論ぐらいは知っていたが、実存主義とか精神分析だなんていうジャンルの作家たちは、興味もなければ深く知るよしもなかった。
それから20年後、芥川賞作家として日本の純文学界では確固たる地位を築き始めていた青野先生と、東京で再会した。失礼ながら若い当時から童顔だったが、40歳を回っても、雰囲気や口調は少しも変わらず、実に若々しかった。
「おう、そうか、あれから帰国して旅行記を書いたのか。売れたか。でも小説を書けよ。何?自信がない?書いて見なきゃわからんだろうよ。書いたら読んでやるから持って来いよ。」
このとき、非常にありがたいお言葉をいただいたが、相も変わらずエネルギシュな方だった。というより、文学に関しては、ほとばしるようなパワーを発する作家で、やはり当時とは、ひと回りもふた回りも大きくなったような気がした。
その後、神奈川の平塚に居を構えていた青野先生とは、東京に来るたびに何回かお会いして近況を報告しあったが、私が45歳で某月刊誌の編集長になったとき、先生にエッセイの原稿依頼をした。彼は快く引き受けてくれた。しかし、よく考えてみれば、28年前にコペンの安宿で皿洗いをしながら過ごした青春時代には、まさか後年、編集者と作家の関係になろうとは、非常に運命的なものを感じた。

コペン到着3日後にバイトにありつく

話は少々横道にそれたが、コペンの安宿に飛び込んで、私は3日目にしてとうとう念願のバイトにありついた。
デンマークの人口は当時500万人強で、現在のヤンゴンと同じくらいの規模。だから首都といってもコペンハーゲンは100万人くらいの小さな街だった。
しかし、酪農を中心とした農業国で、ほかの基幹産業は観光に依存していた国だから、年間の観光客数は半端ではなかった。以前この連載でも書いたが、特にアメリカ人にとってはあこがれの街の一つになっていた。
だから街には有名なレストランやカフェあるいはカジュアルなダイニングが数多くあった。そのため当然ながらそうした飲食店で働くスタッフ、特に皿洗いや簡単な調理助手といった人手が不足していた。人口が少ないうえに、現在の日本と同じようにデンマークの若者は、こうした3K仕事を毛嫌いしていたから、労働力を外国人に頼らざる負えなくなっていた。
そこでデンマーク政府は観光ビザで入国した外国人でも、雇用先が見つかり、そこの雇用証明があり、過去デンマークで犯罪歴がなければ、即日半年間の労働ビザを交付してくれた。
それどころか、さすがに当時、「揺りかごから墓場まで」という形容で世界的に有名になった高水準の社会保障制度を敷く国であったため、こうした外国人労働者に対しても、選挙権以外、納税の義務(給与天引き)さえ果たしていれば、ローカルと同じ恩恵が受けられた。
この当時推定だが、街には数百人の日本人が働いていた。隣国のスエーデンやノルウエーを含めれば、北欧全体で500人前後の人間がこうした3K労働に従事していたという。その現象があまりにも露骨になり、表面化してきたので当時、日本の大新聞が「北欧にたむろする日本の若者たち」という特集記事を書いたほどである。
だが、当事者の我々としては余計なお世話だった。観光ビザとは言え、正規の労働ビザを取得してバイトしており、何らやましい気持ちはなかった。が、この街で仕事をしている外国人は何も日本人ばかりではなかった。
ドイツがトルコと労働者受け入れ条約を結んでいたため、ドイツから締め出されたアラブ諸国やアルジェリア、モロツコといった北アフリカ諸国からかなりの数の人間たちが、彼らは家族を養うための出稼ぎ労働者としてやってきていた。

北欧最大のカフェテリアでの皿洗い

私にバイト先の情報をくれたのは、同居人のSさんであった。仁義に厚く、面倒見のいい方で、前述の青野先生と同様に、この下宿屋では最も親しくさせていた方だった。
そのSさんが、私が入居した翌日、「おい、ABCの日本人が明日辞めて旅に出るらしい。今から行って後釜の話を頼んで来い。」という貴重な情報をくれたのだ。
”ABC”とは、コペンの目抜き通りにあり、収容人員300人を超す当時北欧最大といわれたカフェテリアであった。当然、従業員はいつも不足気味で、調理人以外はすべて外国人労働者が占めていた。
客がカウンターで料理、飲み物を選んで自分で席に運ぶスタイルだから、表のテーブル席約200席の食後の食器類を片付け、即座に次の客が座れるようにする片付け係が常時7,8人、そしてその食器類を洗う皿洗いが、3交代制で9人、後は主食のじゃが芋を煮たり野菜を切ったりするヘルパーが3人と、合計で30人近くの外国人が働いていた。
このうち日本人は片付け係、ヘルパー各2人、皿洗いが2人と6人いた。むろん、みな腰掛けのアルバイターである。半年くらい働いて、金が貯まると欧州、アジアへ旅立つバックパッカーがほとんどだった。
だから彼らは旅に出て金がなくなると再びコペンに戻ってきて資金稼ぎをする。そのため辞めたバイト職に意図的に知り合いを紹介し、旅先で連絡を取りながら戻ってきたらすぐ再びバイトができるように、なじみのバイト先を確保しておく人間が多かった。
Sさんが紹介してくれたバイト先も、そうした日本人同士で確保している仕事だった。このようなバイト先がレストランに限らず。この街には工場や商店の裏方などいくつもあることを後に知った。いわば日本人の互助会である。雇用先も日本人は真面目で勤勉だという評判が立ち、このスタイルを半ば歓迎しているような節があった。
私は「ABCカフェテリア」で夜勤の皿洗いに配属された。夕方4時から深夜12時までの8時間勤務だが、合計1時間の休憩があるので実質7時間労働で、時給は約450円であった。
休みが週一あったから週給にすると税金を引かれて1万6千円ぐらいで、月額手取り6万4千円。当時日本の大卒初任給が2万円前後だったから、私にすればこれは破格の給与だった。現在、日本には実習生制度や特定技能制度を使い、金をためる目的で来るアジアの若者が少なくないが、この当時、皿洗いといえども、母国の大卒給与の約3倍強もの報酬を手にできたのわけだから、アジアの若者たちの気持ちがよくわかる。
4日目から、バイトが始まった。皿洗いといって手作業ではない。表のフロアからベルトコンベアで流れてきた食器類を仕分けし、それを巨大な皿洗い機に流し込むだけである。こちらもコンベアで流れ作業だが、この機械は乾燥まで自動で行う。
一見楽そうに見えるが、何しろ北欧最大のカフェテリアである。食べ終わった食器。コップ、ナイフなどが切れ目なくコンベアから流れてくる。それを仕分けする係、機械に放り込む係、そして乾燥させて出てきた食器を整理整頓する係と、3人でやっても休む暇もない忙しさであった。【以下次号に続く】

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