髪女 「浴室の排水口にびっしりと絡まっていた黒くて長い髪の毛の謎」|川奈まり子の奇譚蒐集二九

「以前、川奈さんに愛媛県であった出来事を取り上げていただいた者ですが、愛媛に赴任する前に住んでいた宮崎県のアパートでも気持ち悪いことが起きていて、もしかするとあの話の前日譚になるんじゃないかと閃いたので、ご連絡さしあげました」

つい先日、大分県在住の岡村正博さんからこんなTwitterのダイレクトメッセージを頂戴した。

正博さんは、この連載「奇譚蒐集」の第18・19話『オバケの棲む家』に登場した男性だ。『オバケの棲む家』は、22歳の会社員・岡村正博さんが赴任した愛媛県の社宅でポルターガイスト現象に悩まされた挙句、ついにはオバケと対決するという話だった。

その「前日譚」かもしれないと聞いては、インタビューしないわけにはいかない。さっそく取材させていただいた。

「川奈さんは憶えていますか? 僕が当時、脊椎分離症といって腰の骨が疲労骨折する病気になっていたって……」

「もちろん。『オバケの棲む家』の初めの方にその辺の経緯を書きましたから……。たしか、手術を受けられて4ヶ月も入院して、入院中に宮崎県の社宅を追い出されてしまって……愛媛支所に異動させられたのは退院後の話ですよね?」

「そうです。だから、これから話す出来事は、手術前、腰痛に悩まされながら宮崎県で働いていたときのことなのです」

岡村正博さんが宮崎県に赴任したのは4月初めのことだった。

その前は福岡県の支所にいて、会社の独身寮に住んでいた。宮崎支所で欠員が出たために異動させられることが決まったわけだが、聞けば、宮崎支所には単身者向けの寮がないのだという。そこで、正博さんに異存がなければ、会社が一部家賃を負担してアパートを借りてくれることになった。

無論、異存があるわけがなかった。経済的に助かるというだけでなく、高卒でこの会社に就職してからずっと独身寮に住んできて、アパートでひとり暮らしすることに少し憧れていたのだ。

宮崎支所の総務担当者から、どんなアパートがいいか希望を聞かれたので、「いわくつきじゃなければ何でもいい」と伝えた。失笑されてしまったが、正博さんは真剣だった。オバケが苦手だったのだ。

やがて赴任する日が迫り、宮崎支所のスタッフに案内されて新しい住まいに行ってみると、繁華街や駅から徒歩圏内、支所までも自転車通勤が可能な便利な場所に小綺麗な二階建てのアパートが建っていた。築10年以上になるというが、モダンで堅牢な造りの建物で、浴室とトイレ、洗面所がそれぞれ独立しており、悪くないと思った。

部屋は1階の101号室。アパートのエントランスを入ってすぐ左側に玄関ドアがある1Kの部屋だ。6畳の和室と3畳半のダイニングキッチン、あとはバスとトイレという典型的な単身者向けの間取りである。

支所が掃除用具を貸してくれたので、まずは軽く掃除をした。

玄関を入ると、まずはフローリングのダイニングキッチンがあり、浴室に通じる洗面所兼脱衣所とトイレのドアが左手に、磨りガラスを入れた引き戸を挟んで和室が奥にあった。

和室から先に掃除機をかけはじめ、ダイニングキッチンの床は雑巾で拭いた。退去時に清掃されていたようで、さほど汚れていなかった。それだけに、洗面台に髪の毛が落ちているのを見つけたときにはギョッとした。

白い陶器の洗面台に、20センチから30センチ弱ぐらいの黒い髪の毛がパラパラと散らばっていたのだ。よく見ると、洗面所の床にも何本か落ちていた。

さらに、浴室にも……。浴室では、床に落ちていただけでなく、排水口にも何本も絡まっていた。

細くて癖のない、真っ直ぐな黒髪だ。おそらく女性のものだろう。

――気持ち悪い! ちゃんと掃除しておいてくれよ!

心の中で前の住人に悪態をつきながら、ガムテープで拾い集めてレジ袋に入れた。そしてその後も掃除を続けようと思ったのだが、髪の毛を捨てたレジ袋がなんだか気になる。気にしなければいいのだが、どうしてもそっちに目が向いてしまう。

――ああっ、もう! 外に捨ててこよう!

近所のコンビニエンスストアに飲み物を買いに行こうと思っていたから、出掛けるついでに髪の毛入りレジ袋を持って出て、コンビニのゴミ箱に捨ててきた。

家庭で出たゴミをコンビニのゴミ箱に捨てるのはいけないことだ、が、引っ越したばかりということもあり、ゴミの集積所の方へ行かず、うっかりコンビニに直行してしまったのである。

しかし、家から離れた場所に髪の毛を捨ててきてみたら、部屋に戻ったとき、気分がスッキリした。空気が清浄になったような心地さえした。

翌朝、正博さんは宮崎支所に初出勤した。

前夜は早めに床に就いたのに、あまりよく眠れなかった。掃除と引っ越し作業のせいで持病の腰椎分離症が少し悪化してしまったせいもあったが、痛みは鎮痛剤でコントロールしている。それよりも、変な夢を見たからだ……いや、あれは夢なのか、どうか……。

どれほど眠ったかわからないが、深夜ふと目を覚ましてしまい、途端に、体が動かないことに気づいたのだった。

――金縛りだ!

焦って左右を見回すと、磨りガラス越しに見えるダイニングキッチンの方が仄明るい。窓の外から外の街灯の明かりが差し込んでいるのだ。ガラスの引き戸の向こうに、青い光が薄ぼんやりと満ちていた。

そこを、水槽で泳ぐ魚のように、黒いものがゆっくりと横切っていった。

女性か子どもかわからないが、小柄な人物の頭ぐらいの高さを、ちょうど大きさも人の頭ほどあるかと思われるような球状の影が、スーッとダイニングキッチンを通り抜けていく。

――という夢を見たんだよな? 気づいたら朝だったもんな。

夢に違いないと正博さんは考えたが、金縛りの感覚と不思議な丸い影が現れたときの光景を生々しく記憶していて、どうも普通の夢とは違った。いつもは夢を見てもすぐに忘れてしまうのに、1日経っても忘れられず、細部まで鮮明に憶えていて、実際に体験したとしか思えなかった。

まあ、しかし、異動直後は途轍もなく忙しく、新しく覚えなければいけないことも多く、おかしな夢にこだわっている暇などなかった。

とはいえ、それからも同じ夢を週に2、3回も見つづけたので、次第に怖い感じがつのってきて、週末ごとに繁華街に繰り出したり、平日でもコンビニで買ってきた酒を軽く飲むようにして、余計なことを考えないように努めてもいた。

引っ越しから3週間ほど経った週末のことだ。

なんの予定もない日だった。目が覚めて、あらためて部屋を眺めてみたら、部屋じゅうがひどく汚れて散らかっていた。考えてみたらあれから一度も掃除をしていなかった。

そこで今日は徹底的に片づけと掃除をしようと思い立った。入居した日と同じように、和室から順に手をつけていって、洗面所の番になった。ふと、厭な光景が頭をよぎった。

――あのときは、洗面台に落ちてたんだよなぁ。誰のものかわからない黒い髪の毛が、パラパラと。

しかし流石に毎日髭剃りや洗顔、歯磨きで洗面台を使っているので、同じことが起こるはずはない。そう思っていたのだが。

洗面台の排水溝に小さな網が嵌め込まれていて、そこに髪の毛が絡まっていた。正博さん自身の髪だと信じていたが、取り除いてみたら……長い。

長いのだ。

20センチ以上もある髪の毛が数本、正博さんの短い髪と絡まりあって、へばりついていた。

彼の髪は長いところでも8センチ前後。それに太くて硬いのだ。明らかに違う人間の髪が混ざっているということになる。

思わず膝が震えた。
この部屋には誰も連れてきたことがなかった。

――いやいや、最初の日に、ここの排水口を掃除し忘れたという可能性もある!

怖くなるのが厭さで、合理的な考えに無理矢理しがみつくことで気を鎮めながら、洗面所の床を掃除しはじめたのだが。

――うわぁ。なぜだ? どこから湧いた?

またしても長い髪を見つけてしまった。
さらには、浴室の排水口にも、びっしりと……。
まるで女性と同居しているかのようである。
正博さんは震える手で拾い集めた怪しい髪の毛をレジ袋に詰め、再びコンビニのゴミ箱まで捨てにいった。
前はうっかり持っていってしまったからそうしたのだが、今度は確信犯的に、そうしたのだった。正しいことだとは思わないが、自分の生活圏から出来るだけ遠ざけておきたかったのだ。

その晩も、例の夢を見た。

金縛りにあい、ダイニングキッチンの方を向いたら、頭の大きさの黒い球が宙をスーッと横切った。

それから意識が朦朧としてきて、ハッと気づくと朝になっていた。

……近頃では、これが本当に夢なのかどうか、自信を喪失しかけている。

このことがあってから、彼は神経質なほど頻繁に掃除をするようになった。すると、ほぼ毎日、長い髪の毛が出現していることがわかってきた。

しかも、ダイニングキッチンの床でも見つけるようになった。以前は見落としていただけかもしれないが、髪の主の行動半径が広がっているような気がして恐ろしく感じた。

夏になる頃には、引っ越したいと思いはじめた。しかし上司に相談しづらく、我慢するしかないとあきらめてもいた。

――前の職場ならみんな気心が知れていたんだがなぁ。ここでは新参者だし、転居するには金もかかるし、髪の毛と夢が怖いからなんて馬鹿にされるに決まってるしなぁ。

そんなわけで彼は、夜の街で飲み歩くことが増えた。そのうち行きつけの店が出来て、そこで知り合った仲間としょっちゅう店で落ち合って歓談するようになった。

腰痛持ちで怪奇現象にも困らされているが、本来、正博さんは陽気で社交的な性質なのである。

そこで、ある夜、いつもの飲みの席で、髪の毛の件を一種の怪談として披露した。

「このところ暑い日が続いているから、いっちょ納涼ってことで、俺の本当にあった怖い話をひとつ……。今、住んでるアパートさあ、髪の毛が落ちてるんだよ。そこそこ長さのある真っ直ぐな黒髪がパラパラと……掃除しても、また翌日には落ちてるんだ。おまけに、夢か現実かよくわからないんだけど、しょっちゅう金縛りにあって、そのときダイニングキッチンの方を向いたらヤバいんだ。黒い影がスーッと飛んでいくのが見えちゃうからさぁ……」

とかなんとか。
狙いどおりに座が盛り上がり、背中にずっと貼りついていた怖さも薄らいで、話してよかったと彼は満足だった。

店の閉店時刻は午前3時で、そこで飲み会はお開きになった。正博さんはその日は退社後、帰宅せず真っ直ぐ飲みに来てしまったから、通勤に使う自転車を店の前に停めていた。いけないことだが、わずかな距離だから……と、自転車の飲酒運転で帰ることにした。
漕ぎだすと、酔っ払って熱くなった顔に風があたって気持ちよかった。

――ひゃあ、涼しい。

ご機嫌で商店街のアーケードを走り抜けた。ここを出て道を左に曲がったら、アパートはもう目と鼻の先だ。
正博さんは緩やかにハンドルを切った。その瞬間、自転車を後ろから激しく引っ張られたように感じた。

彼は勢いよく転倒し、道路に投げ出された。ビリッと音がして、仕事用のワイシャツが大きく破れるのがわかった。肘が熱く脈打ち、血の臭いがした。

呻きながら体を起こしてみたら、頭を電柱に擦りそうになった。

電信柱のすぐ近くに倒れていたのだ。

あと3センチそっち側に転んでいたら、頭をコンクリート製の電柱に強打して死んでいたかもしれないと思うと、背筋が凍った。

――あの話をしたせいだ!

なぜかそう直感して、部屋に帰るのが恐ろしくてたまらなくなった。

しかし帰らないわけにはいかない。

恐々と玄関を開けて、部屋に入り、シャワーも浴びずに寝てしまった。

その夜は夢を見なかったが、翌朝、洗面台に長い髪が何本も散らばっていた。

それからしばらくして、8月下旬のある日、夜8時頃に自転車で会社から帰宅する途中、スーパーマーケットで夕飯にする弁当を買った直後のこと。

交通量の少ない十字路を自転車で渡ろうとしていたとき、なんの前触れもなく、後ろからいきなり強い衝撃を喰らった。自転車ごと前に跳ね飛んだかと思うと、正面に電柱が迫っていた。

――ぶつかる!

正博さんは咄嗟に自転車から飛び降り、横にゴロゴロと転がった。

自転車が電柱に激突して、弁当と通勤鞄を入れた前カゴとフロント部分がグシャグシャに潰れるようすが、なぜかスローモーションのように緩慢かつはっきりと見えた。

そのとき頭に浮かんだのは「弁当がパーになった」ということだったが、我に返ると、それどころではない。あと少しで命が危なかったし……この前の出来事と似ているではないか……。

今回は怪我はなかった。起きあがって振り向くと、前半分が潰れた自転車のすぐ後ろに自家用車があった。停止しているが、運転席に人がいる。

――あいつに追突されたんだ!

警察を呼ばなければ、と、思いながら、ひと言、言ってやらないでは気がすまなかった。

「どこに目をつけてんだよ! 危ないじゃないか!」

窓から覗き込むと、ドライバーは中年女性で、ハンドルを握りしめたまま、目を見開いてガタガタと震えていた。

「おい! オバサン……大丈夫?」

女性は激しく震えているばかりで、返事も出来ないようすだ。話しかけても、振り向きもしない。真っ直ぐ前を見つめて震え、血の気が失せて顔色が紙のように白い。

結局、正博さんが警察に通報し、パトカーでやってきた警察官に事情を説明した。

「交差点で、左右の安全確認をしましたか?」
「しましたよ! もっとも車は全然いませんでしたけど、左右も、前方にも、一台も。でも、追突されたのは間違いないから、後ろには走っていたんですよね」
「そういうことになりますね。クラクションを鳴らされませんでしたか?」
「いいえ。何にも聞こえませんでした。いきなりドンッと……」

――あれ? エンジンの音も聞こえなかったなんてこと、ありえるのか?

女性は立つことも出来ず、相変わらず口がきけない状態だったので、家族が呼ばれて警察署で事情聴取することになった。正博さんも出来れば警察署に来てほしいと警官に言われ、仕方なく同行した。

「明日も会社があるので、早く帰りたいのですが」
「事故の相手方のお身内が謝罪したいとおっしゃられているようですから、署で面談してからお帰りになられた方が、後々、面倒がないでしょう。あなたもお怪我はないようですし」

説得されて警察署に行くと、再び事情を聴かれた。

「ほぼ真後ろから追突されて、電柱の方へ跳ね飛ばされました。ぶつけられるまで何も気づきませんでした」

そのすぐ後、警察署で引き合わされた女性の夫だという男性にも、正博さんは同じ話をした。彼は訝し気な表情で聞き入ると、どうにも納得がいかないといった口調でこんなことを言った。

「妻がなぜあんな場所に行ったのか、私にはそれが不思議です。いつも通る場所ではないし、あっちの方に用事があったとも思えません。住んでいる所からも遠いし、第一、なぜあの時間に車を運転していたのか、さっぱりわかりません」

ひとしきり首を傾げてみせてから、正博さんに茶封筒を差し出した。

「これで新しい自転車を買ってください」

帰り道に封筒の中を確かめると数万円入っていた。後で人に話したら、もっと貰えたはずだと言われたが、正博さんにとっては充分に有難い金額だった。

翌日、保険会社から電話連絡があり、そのとき、女性が追突した原因など、何か新しくわかったことがあるか訊ねてみたが、何もわからないという返事だった。

「今朝聞いたところだと、あれからまだひと言も喋らないんだそうです。ご家族も困惑していました。精神科を受診させるそうですよ。……災難でしたね」

奇妙な追突事故に遭ってから、正博さんの腰椎分離症は目に見えて悪化しはじめた。事故の直後はなんでもなかったのだが、日が経つごとに痛みが強くなってきて、とうとう鎮痛剤が効かなくなった。

事故から一週間後、夜、寝るに寝られず、脂汗をかきながら激痛に耐えて、なすすべもなくただ横たわっているうちに、金縛りに襲われた。

今回は眠っていなかった。眠っていて、目が覚めると金縛り……という、これまでのパターンとは違う。痛みで眠れず、目は冴えていた。その瞬間、ガクンと一段床が下がったかのように感じたかと思うと、上から圧迫感を覚え、指一本動かせなくなった。

重さを感じるという点も、今までの金縛りとは違う。
上からのしかかられているかのようだ。眼球は動かせた。いつもなら、この後、ダイニングキッチンを黒い球が横切るのだ。

横目で、磨りガラスの引き戸を捉えた。青く沈んだ、深夜のダイニングキッチンが擦りガラスの向こうにある。

ほら、今に、黒い影が……。と、怖いような期待するような中途半端な心地で待っていると……現れた。黒い、人影が。

女のシルエットが、洗面所の方から現れて、ダイニングキッチンを横切って、引き戸に貼りついた。

こちらを、見ている。

恐怖で全身に緊張が走った――と、同時に、腰で痛みが炸裂した。耐えがたい疼痛が背骨を駆けあがり、意識が消し飛んだ。

激痛のあまり失神し、朝まで目が覚めなかった。そのときには立つことも満足に出来なくなっており、実家と会社に電話するのが精一杯。救急車を呼ぶことも考えたが、入院するなら最初に腰椎分離症の診断を受けた実家の近くの病院で、と、思い、実家から車で迎えに来てもらって大分県に帰った。

病院へ行くと緊急手術と長期の入院が必要と言われ、即、手術して入院することになった。入院中は何事も起きなかった。ただ痛かったり、退屈だったりしただけで。

4ヶ月も入院し、退院してから愛媛県に赴任して、そこで起きたのが『オバケの棲む家』で書いた出来事というわけである。

「入院中に、宮崎支所から、次の人を住まわせるからアパートを空けてくれと言われたので、母と祖母が引っ越し作業と掃除をしに行くことになりました。宮崎支所のスタッフも手伝ってくれて、1日で作業を終えたのですが……。夜になって帰ってきた母に小言を言われたんですよ。

『彼女を連れ込むのもいいけど掃除機ぐらいかけなさい。部屋中に長い髪の毛がたくさん落ちていたよ』って。

祖母も浴室の髪の毛を掃除したそうで、とても気持ちが悪かった、もう二度とあの部屋には行きたくない、と……」

ここまで話して、正博さんはそこで一呼吸入れたので、そこで話が終わったものだと私は思った。しかし、違った。

「愛媛支所から異動して念願の大分勤務になってから、ある店で飲んでいると、そこのママさん――この人は霊感が強いという噂がある人なんですが、本業があるので滅多に店に顔を出さないんです――が出勤してきて、僕は初めて会ったから『お、噂のママさんだ』と思って注目したんですが、そうしたら、ママさんも僕のことをジーッと見つめてきたんですよ。『え? なんでそんなに俺のこと見つめるの?』って思うじゃないですか。ちょっと不思議でした。すると、いきなりママさんが、『どこから憑いてきたのか知らないけど、あなたの後ろに女がいます。今すぐ取り殺されるわけでもなさそうだけど、このまま憑かせていると、そのうちにまた良くないことが起こるから』と言って、般若心経の本と便箋を出してきて、『写経しなさい』と勧めてきました。

『ここでですか?』と戸惑って訊き返すと、『難しく考えなくてもいいのよ。試しに書いてみなさい』って、ボールペンを差し出してくるんです。しょうがないから言われるままにボールペンを持ったら、いきなり、右腕が動かなくなったんですよ。力を入れても、右腕がプルプル震えるばっかりで、どうしても動かない……と思って焦ってたら、ママさんが、僕の右肩に手を乗せました。
その手が異様に温かった! 何分か手を置いてくれて、『これでもう大丈夫よ』とママさんが言った。すると、右手が動くようになったので、すぐに写経を始めました。その飲み屋のカウンターで、ですよ!」

「その場で女の霊が祓えたんですか?」

「いいえ。毎晩、写経して、お風呂に入るときに粗塩を入れるのを続けてみなさいとママさんにアドバイスされました。それで言われたとおり真面目にやっていたら、3ヶ月後、その店でママさんに再会したときに、『うん! もう大丈夫よ!』 って言ってもらえたんです。もう憑いていないって。

……こういうことがあったので、愛媛で遭ったオバケは、宮崎のアパートからずっと僕に取り憑いていた女の霊に反応していたのかもしれないなぁ、と、川奈さんが書いてくれた『オバケの棲む家』を読んだ後に、思いついたんですよ。

それにまた、愛媛のボロ家では僕は全然掃除をしなかったので、そのせいで髪の毛を見つけられなかったのかもしれないんです。髪の毛が落ちていても気がつかなかったんじゃないかな。薄暗い家でしたからね。電気もちょっとしか来てなくて、採光も悪くて。実は髪の毛だらけだったんだとしたら、厭ですね……」

「じゃあ、愛媛のあの家では、オバケ対幽霊で喧嘩をしていたという可能性も……?」

「そういうことになりますねぇ」

(川奈まり子の奇譚蒐集・連載【二九】)

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