【平和つなぐ 戦後74年の夏】原爆の子の像非戦誓う 県遺族代表・木戸さん、建立に尽力

「原爆の子の像」の前で幟町中学校時代の旧友と再会し、笑顔を見せる木戸さん(右)=広島市中区

◆像のモデルは亡き同窓

 74度目の祈りの日もまた、「原爆の子の像」のもとに足を運んだ。神奈川県の遺族代表を務めた木戸(旧姓由井)キク子さん(77)=川崎市麻生区=にとって、像のモデルとなった佐々木禎子さん(当時12)は中学校の後輩。苦しみに心を痛め、像建立に向けた活動にかつて尽力した。完成から60年以上たってもなお、当時の記憶は非戦の誓いとともに色あせない。

 1945年8月6日。爆心地から約2.5キロ離れた広島市内の自宅にいた。当時3歳だったから、はっきりとは覚えていない。家の中で「防空頭巾」「防空頭巾」とたどたどしい口調で話した記憶だけが残る。

 後に母に聞いた。爆風で棚が落ち、畳が飛んだ。ふすまや障子も破れたのかもしれない。今も実家は当時の場所にある。両親も、きょうだいもけがは負ったが助かった。だが、原爆の恐ろしさはその日だけでは終わらないことだ。

 10年後の市立幟町中学2年時、木戸さんは生徒会役員を務めていた。希望に胸を膨らませる新入生の中、級友の妹が病で苦しみ登校できずにいることを知った。禎子さんだった。「禎子さんの同級生たちが、『かわいそうに学校にも来られないんじゃ』と胸を痛めていた。私たちも上級生として何かできることはないかと立ち上がった」

 禎子さんが病室で毎日鶴を折っていることを知り、校内に呼び掛けて折り鶴をつくり、病室に届けた。だが祈りもむなしく、55年10月25日、禎子さんは白血病で12年の短い生涯を閉じた。

 悲しみは共感の輪を広げる。同級生を中心に、原爆で亡くなった子を慰めようと石碑の設置に向けた活動が始まった。

 「最初は学校の中の話だったが、市内に広がり、最後は全国に広がった」。生徒会の会計を担っていた木戸さんは放課後、寄付の額を集計するのが日課となった。「昨日は5千円。今日は8千円…」。卒業時には500万円を超えるまでに膨れ上がっていた。

 「『禎子さんを忘れちゃいけん』という子どもたちの力だけで広がった。純真な気持ちが皆さんに通じたことに感銘を受けた」

 58年5月、原爆ドームを間近にする平和記念公園の一角に像は建った。半世紀経てもなお、周囲には年間約1千万羽の折り鶴がささげられる。悼む人は国内だけではない。世界中の人たちが、禎子さんの悲話に触れ、原爆の悲惨さを胸に刻む。

 「折り鶴も今ではこんなに広がってね。ありがたいことだし本当にすてき」。像を訪れる中高生たちにかつての自らを重ね、ほほ笑む。そして願う。「若い人たちに言いたいことは一つだけ。戦争は絶対にいけない。あの惨状は二度とあってはならない」

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