第五十二回 うっとりする『伝説のフィーリン』を聴いて人生を立て直そう

うっとりする音楽というものがあります。でも、うっとりするのは、人それぞれで、演歌であったり、ポップ・ミュージックであったり、フォーク・ミュージックであったり、クラシックであったりします。

ノイズ・ミュージックが好きな友達は、工事現場のようなとんでもない騒音をイヤホンで聴きながら、うっとりしつつ昼寝をするそうです。騒音が頭を真っ白にして、よく眠れるということで、わたしも真似してやってみましたが、目をつぶったら、地獄に連れて行かれそうになり、やめたことがあります。

とにかく、うっとりする音楽とは、それぞれの趣味であると思うのですが、個人の趣味を抜きにして、誰もが、うっとりできるものは、どんな音楽かと考えてみたところ、うっとり音楽の最高峰は、フィーリンという音楽ではないかと思いました。

フィーリンは、1940年代にキューバのハバナで起こった音楽です。わたくし、専門家ではないので詳しいことはわからないのですが、多分いろいろな音楽にも影響を与えていると思います。

でもって、フィーリンで有名なのは、巨匠、ホセ・アントニオ・メンデスという方で、ホセさんの素晴らしいアルバムもあるのですが、今回紹介したいのは、もう一人の巨匠、セサル・ポルティージョ・デ・ラ・ルスの『伝説のフィーリン』というアルバムです。名前がややこしいのですが、セサルさんの歌声はどこか不安定なのですが、優しくて、ずんずん体に染み込んできて、本当にうっとりしてしまいます。

アルバムの説明によれば、セサルさんは、あまり録音をしてなかったそうで、キューバの革命前からの音源を所有する会社に調査をしてもらい、見つかったのが、このアルバムに収められている音源だそうです。

全部で22曲入っています。歌詞の意味はまったくわかりません。それでも、うっとりしてしまいます。

本当に、なんなんだ、このうっとり感は!録音で、これだけうっとりしてしまうのだから、本人を目の前にして、生で聴いたら、気絶していたかもしれません。そのくらい危険なミュージックでもあります。

昨今、きなくさい世の中になってきました。とにかく、全世界、いたるところで、このフィーリン・ミュージックを流しまくって、カリカリした奴や、戦争を起こしそうな奴、政治家や権力者に、聴かせてやりたいものです。世の中をよくするには、皆が一旦、うっとりしなくてはならないのではないかと思えてきました。

また、うっとりは、メローとかマッタリとは違います。のんびりするのではありません。うっとりとは、どこかが麻痺してしまうような危険性もはらんでいるのです。とにかく、『伝説のフィーリン』を聴いて、人生を立て直してみるのは、どうでしょうか?ああ、うっとり、フィーリン。

戌井昭人(いぬいあきと)/1971年東京生まれ。作家。パフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」で脚本担当。2008年『鮒のためいき』で小説家としてデビュー。2009年『まずいスープ』、2011年『ぴんぞろ』、2012年『ひっ』、2013年『すっぽん心中』、2014年『どろにやいと』が芥川賞候補になるがいずれも落選。『すっぽん心中』は川端康成賞になる。2016年には『のろい男俳優・亀岡拓次』が第38回野間文芸新人賞を受賞。

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