亡き父思い、鎮魂祈る 両親被爆の浦山さん(富山) 9日長崎平和祈念式典で献花

原爆関連の資料を手に父への思いを語る紀美さん=富山市内の自宅

 長崎への原爆投下から74年目の9日、両親が被爆した富山市珠泉東町の会社員、浦山紀美さん(55)が、長崎市の平和公園で開かれる長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で、全国の遺族を代表し献花する。「原爆で心に傷を負った、富山で暮らす人たちのためにも、しっかりと鎮魂を祈ってきたい」と話す。 (社会部・村田美七海)

 全国の遺族代表の献花は毎年、男女1人ずつが選ばれる。長崎市原爆被爆対策部によると、記録が残る2004年以降、富山県代表が行うのは初めて。

 13年に亡くなった紀美さんの父、保さん=享年(81)=は1932年、長崎県脇岬村(現長崎市)で生まれた。戦時中は学徒動員で三菱長崎造船所に働きに出ていた。45年8月9日午前11時2分、出勤前の昼食時に原爆が落とされた。爆心地からわずか2.2キロの距離だった。

 建物の下敷きになり、一時意識を失った。翌日に嘔吐(おうと)し、1週間以上発熱に苦しんだという。爆風で肩や手の甲などに突き刺さったガラスや木片の傷が癒えることはなかった。右手をさすりながら「痛い。傷が取れないんだ」と話す姿を紀美さんは覚えている。

 母のヨウ子さん(83)も爆心地から約12キロの場所で被爆した。大きなけがはなかったが、「原爆投下後の火事で、夜中なのに赤く染まった空」が記憶から消えることはない。

 一家は戦後、愛知県で暮らし、紀美さんは仕事の関係で富山へ移った。親戚が大勢いる長崎は、よく家族で訪れたという。「父は『いつか長崎に戻りたい』と話していた」と振り返る。

 保さんは生前、戦争体験を語ろうとしなかった。紀美さんは、保さんの死後、残された資料を読んで被爆時の詳しい状況を知った。被爆者が少なくなる中、「原爆や核兵器の恐ろしさを語り継がなければならない」と、2年前に発足した県被爆者協議会の「二世・三世の会」に入会した。

 県健康課によると、県内で被爆者健康手帳を持っているのは今年3月末時点で48人。うち長崎の被爆者は24人だ。平均年齢は85.2歳で、手帳を持つ人は10年前から半減した。

 「最近は、どこに原爆が投下されたのか知らない若者もいる。世界で核の脅威が高まっているのに、こんなにのんびりしていていいのか」と紀美さんは危惧する。「平和祈念式典をテレビの中の出来事と思わずに、8月9日を戦争について考える日にしてほしい」と語る。

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