歴史の if を考える ― 音楽業界が自ら「貸レコード」に取り組んでいたら? ① 1980年 6月15日 貸レコード店「黎紅堂」が東京都三鷹市で開店した日

私が渡辺プロダクションに入社して3年目、1981年くらいから、「貸レコード」、のちの「CDレンタル」が大問題になっていきました。いわゆる「貸レ問題」。

それがまだ騒ぎになる前のある日、所属部内の定例会議の席で、私は「レコードってレンタル・ビジネスはできないんですかね?」というような質問を、先輩諸氏に投げかけました。

CD 登場以前の時代。もちろんインターネットなどない。レコード店に行ってもほとんど試聴ができなかった頃、私たちは、ラジオなどで聴いてちゃんと判っているもの以外は、雑誌のお薦め記事を読んで、レコード店で店員の推薦文を見て、あるいはジャケットの雰囲気で(「ジャケ買い」!)、自分なりに推測するしかなく、3,000円近くもする LP を「えいやっ!」とばかりに買っていたわけです。

「これは商売としてあまりにも乱暴じゃないの?」と、私は常日頃考えていたのでした。

で、思いついたのが、たとえば LP なら1回500円くらいでレンタルするってこと。当然、カセットテープにコピーされるだろうけど、ユーザーのハードルはずっと下がって、手を出しやすくなるでしょう。レコード会社だって、3,000円で売り切りのものが、10回、20回借りられれば、何倍も稼げるわけです。

こりゃあ “Win-Win” だ(なんて言葉はその頃は聞いたこともなかったですが)、いいアイデアだと悦に入り、発言してみたわけです。ま、発言したところで簡単に実現できるなんてもちろん思っちゃいませんが。

そしたら、某先輩が「そういうの、もう三茶(三軒茶屋)にあるよ」と。

私が思いつくくらいですから、世の中に同じようなことを考えている人はいくらでもいたのでしょう。1980年6月に東京都三鷹市に「黎紅堂」(れいこうどう)という貸レコード店が生まれ、またたく間にチェーン化、「友&愛」とか「レック」、「ジョイフル」という競合も登場し、1981年6月にはもう500店、1982年末には約1,700店と、ものすごい勢いで拡大していきました。

問題は、それがレコード会社 = 音楽の供給者からではなく、第三者から生まれ、そのレンタル売り上げは供給者には一銭も入らないこと、そして価格が、私が想定していたよりさらに安く250~300円だったこと。

当然ながら、レコードの売上自体は下がりましたから、1981年10月、レコード会社13社と日本レコード協会が、貸レコード店大手4社に対して著作権侵害だとして、貸し出し差止めを求める民事訴訟を起こしました。84年5月にある程度結着がつくまで、かなりのすったもんだがありまして、これがつまり「貸レ問題」なんであります。

今や、CD そのものが慢性不況で、多くの商品がレンタル店からの受注でなんとか糊口を凌いでいるという、言わば敵から塩を送ってもらっているような状況となり、しかも CD レンタル店自体もピーク時(1989年:6,213店)の3分の1程度に減ってしまっているので、「貸レ問題」などすっかり風化してしまった感があります。

だけど私は、この「問題」こそが日本の音楽業界の「問題」をとてもよく現していると思いますし、音楽業界の今後を考えるためにも、歴史の “if” を問いながら、このできごとを改めて考察してみたいのです。

今回の “if” は、「もしも、レコード業界自らがレンタル・ビジネスに乗り出していたら…」です。

【次回へつづく】

カタリベ: 福岡智彦

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