沖縄戦の記憶 戦後世代 担い手に

沖縄戦の継承のため、リニューアルに向けて準備を進める普天間館長=沖縄県糸満市のひめゆり平和祈念資料館

 セミ時雨が降り注ぎ、風に揺れる木々の葉音がざわめく。那覇市から南へ車で40分ほどの沖縄本島最南端の糸満市。7月下旬、沖縄戦で犠牲となった「ひめゆり学徒隊」を慰霊する「ひめゆりの塔」の前では、観光で訪れた家族連れや高齢の人たちが黙とうし、平和への祈りをささげていた。

 塔の隣に建つ「ひめゆり平和祈念資料館」は今年、開館30周年の節目を迎えた。学徒隊に関する資料を保管・展示し、後世に語り継ぐ中、昨年4月に一つの大きな変化があった。これまでは元引率教師や元学徒ら沖縄戦の体験者が担ってきた館長職に戦争を知らない戦後世代が初めて就任した。

 「『戦争は絶対に起こしてはいけない』という思いを胸に、私たち戦後世代が体験者から受け継いできたものを次の世代へと橋渡ししていく」。8代目館長の普天間朝佳さん(59)は前を見据える。

 〈次世代の人も育ってるのでもう大丈夫と信じています〉

 開館以来、職員を務めてきた普天間さんに平和のバトンを託した前館長で元学徒の島袋淑子さん(91)は資料館だよりにメッセージを寄せ、さらなる活躍を期待した。

 沖縄戦は熾烈(しれつ)を極めた。1945年3月下旬、慶良間諸島に米軍が上陸したのを皮切りに、約90日間に及ぶ激しい地上戦が繰り広げられ、20万人以上が犠牲となった。住民も巻き込まれ県民の4人に1人、12万人が亡くなったとされる。

 ひめゆり学徒隊は沖縄戦の象徴的な存在でもある。その姿をありのままに描いた映画「ひめゆりの塔」(今井正監督)は1953年の公開後、瞬く間に全国で多くの観客を集めた。やがてテレビやラジオドラマ、浪曲などで演じられるようになると、けなげな乙女たちが国に殉じる演出へと変わり、体験者の思いと乖離(かいり)していった。

 「決して美しい死ではなかった」。普天間さんは島袋さんら元学徒たちの体験を聞くほどに胸が苦しくなった。

 大けがを負い日本軍から取り残された暗い壕(ごう)の中、か細い声でうわごとを言っていた友達がある日、何も言わなくなった。遺体が腐り始め、大量のうじが湧き出した。米軍に追い詰められて本島最南端の海岸では集団自決(強制集団死)も起きた。爆撃で瞬時に変わり果てた姿となったり、黄燐(おうりん)弾が投下され苦しみながら息絶えたりする学徒も大勢いた。生き残った体験者は皆、無念のうちに落命する友の最期を見届けていた。

 「殉国美談で描かれるのは友達に申し訳ない、彼女たちの死を通じて戦争の実相を一人でも多くの人に伝えたい。その思いが資料館をつくる動きにつながった」

 開館以来、展示室で自らの体験談を語ってきた元学徒の証言員による講話は2015年に終えた。当初27人を数えた証言員は高齢化し、今では島袋さんら4人となった。不定期で来館者の質問に答えているが、証言員の体調を考慮し、日程は公表していない。時の経過とともに代替わりを迫られ、戦後生まれの説明員が元学徒の証言映像を活用しながら沖縄戦を伝える。

 ◆ひめゆり学徒隊 第2次世界大戦末期の1945年、人員不足に悩んだ日本軍が看護要員として戦前の沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒と、教師の計240人を動員し、その半数超が戦死した。負傷兵の手術補助や排せつ物の処理、食事や水の運搬などを担った。戦況が悪化し、日本軍が学徒隊に解散を命じた6月18日以降、犠牲が急増した。

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