県傷痍軍人会が今春解散 高齢化と会員減少 「戦後の苦しみ忘れないで」

県傷痍軍人会の資料を見ながら活動を振り返る前田さん=雲仙市吾妻町

 日中戦争や太平洋戦争で負傷し後遺症や障害が残った元軍人らでつくる「県傷痍(しょうい)軍人会」が今年3月、高齢化と会員減少を理由に解散した。2013年に全国組織の日本傷痍軍人会が解散した後も、地方組織で唯一、活動していた。県傷痍軍人会の元副会長、前田灘一(なだいち)さん(97)=雲仙市=は「戦後も大勢が苦しんだことを忘れないでほしい」と語る。
 前田さんは21歳だった1943年、上海に配備された砲艦に配属された。当時は米軍機の爆撃が連日続いており、甲板上で機銃の弾が左太ももを横から貫き、右太ももで止まった。野戦病院で軍医から左脚の切断を促されたが、「怖くて何度も断り、やめてもらった」という。
 左脚は複雑骨折しており、帰国後も入院して治療を続けたが、ひざが曲がるようにはならず、つえで生活。父親が結婚相手をさがしていたが、障害を理由に断られたという。実家の農業を継ごうとしたが、畑の畝や泥土で何度も転び、夜は脚が激しく痛んだ。途方にくれて簿記の学校で若い生徒に交じり学んだ後、農協や水道設備の会社で働いた。
 戦地で負傷し不自由な体になったのだから、国の支援がもっと必要ではないか。そう思い、53年に発足していた県傷痍軍人会に、65年に入会し活動を始めた。会員宅を訪問して相談に応じ、同じ悩みを抱える者同士励まし合った。
 県などによると、日本傷痍軍人会の解散後に多くの都道府県の組織が解散し、相談事業を続けていたのは長崎県だけ。会員は、県に記録が残る76年の約2900人から、昨年には約50人に激減した。現在、全国の戦傷病者の平均年齢は推定98歳。元会長の中里益太郎さん(89)=五島市=は「会員の減少で会費が集まらなくなり運営が立ちゆかなくなった。私も昨年から体調を崩し後任が見つからなかった」と説明する。
 前田さんは上海の病院でずっと看病してくれていた男性看護兵のことが忘れられない。共に乗っていた砲艦の出撃が決まると、看護兵は「行きたくない」とこぼした。前田さんは負傷していたため出撃せず帰国。その後、砲艦が撃沈されたと聞いた。「戦争で多くの人が亡くなった。自分が味わったような思いを子や孫の世代には味わってほしくない」

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