【明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年】 No.189

▲彰義隊の墓(東京都台東区)

(8月14日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

多くの犠牲

 伝令の報告によると、上野の彰義隊は、山内の堂塔に火をかけ、その騒動にまぎれて、退却したという。

 益次郎が空けておいたといわれている寛永寺の東方に向かって、敗走していったのである。

 戦いが終わったのは、午後5時頃であった。

 この日、東征軍は41人の戦死者を出したが、彰義隊の戦死者は200人以上とされ、正確な数は不明である。この戦いによって、町人も犠牲になっている。流れ弾に当たったのだ。

 寛永寺周辺では約1千戸の民家が焼失。7230人の被災者には、米や給付金が支給された。また、戦いの翌日から20日までの間は、握り飯も配られた。

残煙

 その日の夕刻、益次郎は、部下を従え、戦跡を視察した。

 東征軍の指揮所となった松坂屋の前には、防御に用いた畳などが多数散乱し、その周辺には、酒樽や握り飯の残飯もあったという。

 また、激戦となった黒門付近には、彰義隊士の遺体が7体横たわっていた。

 そして、山内には残煙が立ち昇っていた。

(続く。次回は8月28日付に掲載します)

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