将来の計画を全部消した― ITコンサルタントとして歩む元G左腕が描く未来

現在はITコンサルタントとして働く柴田章吾【写真:佐藤直子】

巨人育成選手として3年を過ごした柴田章吾氏が歩む第2の人生

 何かをイメージすることは大切だ。スポーツ界でも「イメージトレーニング」の重要性が説かれ、多くのアスリートが試合やレースに臨む前、自分が最高の結果を掴む姿を思い描く人が多い。だが、時には、イメージ通りに物事が進まないこともある。いや、進まないことの方が多いかもしれない。

 現在、外資系総合コンサルティング会社のアクセンチュア株式会社でITコンサルタントとして働く柴田章吾氏も、イメージ通りに物事が進まなかった経験を持つ。小学生の頃から事細かに将来の計画を書き記していたが、それは30歳の時点でも40歳の時点でも「プロ野球選手として過ごすこと」が前提のものだった。明治大から2011年育成ドラフト3位で巨人入りした柴田氏は、1軍を目指して3年奮闘した。だが、2014年のシーズン終了後に戦力外通告を受け、現役生活にピリオドを打った。

「昔から日記を書いたりキャリアビジョンを描いたりするのが好きで、『何年後にはこうなる』って書き続けていました。でも結局、野球選手としては25歳で終わってしまったので、その先の計画を全部消さなければならなかった。キャリアビジョンを作り直した時、僕は一体何になりたいんだろうなって。その組み立てが大変でしたし、相当時間を費やしました」

 2015年は巨人の球団職員として、ジャイアンツアカデミーのコーチを務めた。子供に野球を指導しながら、就職活動をスタート。「何かを商品にする仕事よりも、自分が商品になる仕事をしたい」という思いを抱き、商社や広告代理店を中心にOB訪問や面接を重ねるうちに、アクセンチュアの存在を知った。当初は人気企業であることすら知らなかったが、縁が両者を引き寄せた。

 意気揚々と入社したものの、いきなりつまずいた。

「最初は何もできなくて、全然自分が商品にならなかったんです(笑)が、こんな風になりたいと思える優秀な先輩が周りにたくさんいたことで成長意欲が沸き、仕事に没頭できました」

 ダイバーシティ(多様性)を掲げ人材育成に力を入れる企業だけに、早い段階から成長の機会を与えられ、4年目を迎える今ではクライアントに「柴田君と仕事がしたい」と評価されるまでになった。スーツに身を包んで海外へ出張するなど、4年前と生活は一変。忙しいながらもやり甲斐と手応えを感じる日々を過ごしている。

 転職にあたり、1つだけこだわったことがある。「元ジャイアンツ」という肩書きには頼らないということだ。「野球選手としての価値はほんの小さなものだったかもしれないですが、そこに上積みするのではなく、1人の人間として勝負したかったんです」。だからこそクライアントに名前を覚えられ、指名を受け、自分の役割や立ち位置が明確になることがうれしかった。

フィリピンに野球アカデミーを設立、元選手のキャリアチェンジの場として活用も

 現在は、企業の経営戦略を踏まえたITシステムの提案・導入を経営層相手に行いながら仕事に勤しむ一方、フィリピン在住の子供を対象とした野球アカデミーを設立することを検討している。ゆくゆくはフィリピンで作ったビジネスモデルを東南アジアに拡大し、「日本と東南アジアにとってwin-winな仕組みを作れたら」と話す。

「2016年3月、転職する前に英語が話せるようになりたいと思い、イギリスとフィリピンに1人でホームステイに行きました。その時、フィリピンで野球をしている現地の子供たちがいたので『野球を教えるから代わりに英語を教えて』と声を掛けたんです。そこから始まって『今度はこっちで野球を教えて』『ここにも来てほしい』と人脈が広がった結果、去年はフィリピンでU-10代表のコーチもしました」

 フィリピンの子供たちに教えているのは、日本の野球文化と基礎がメインだ。ジャイアンツアカデミー時代に学んだ指導のノウハウはもちろん、教育の一環とした挨拶の徹底、野球道具は投げない、話を聞く時は耳を傾けるといった日本では当たり前のマナーも教える。フィリピンを何度も訪れて指導を重ねるうちに「やれることが山ほどある」と感じ、本格的なアカデミー運営とカリキュラムを作り始めた。

「本当に初心者の子や無茶苦茶にやっていた子たちを一定レベルまで引き上げる。日本で学んだ基礎を伝え、野球を好きになってもらえるように楽しい環境を作り、応用編は僕の経験とフィリピン人スタッフの意見を元に日々ディスカッションして作っていきます。日本で作り上げた方法を参考にはしますが、フィリピンで作ることに意味がある。フィリピンを皮切りに東南アジア各地にアカデミーを展開したいと考えています」

 さらに、東南アジア各地に作るアカデミーを、元野球選手たちがセカンドキャリアに踏み出す前のスキルアップの場にしたいという想いもある。

「現役引退後、セカンドキャリアを探すと言ってもすぐに使えるスキルがない元選手たちに、アカデミーのコーチとしてインターンをしてもらうんです。3か月から1年単位で現地に住んで、野球を教えながら英語を学んでもらう。現地では日本企業の駐在員の方や現地企業の方と知り合う機会もあるので、彼らと話をする中で興味のある仕事が少しはイメージできるようになると思います。そのままコーチを続ける選択もあるでしょうし、帰国後に新たに就職活動をしてもいい。その場合は『引退後はこういう時間を過ごして、興味のある仕事に出会いました。就業経験はないですが、英語はある程度話せます。TOEICも○点あります』となれば可能性は広がる。

 既存のセカンドキャリア支援として、とりあえず就職先を紹介されても、本当にやりたい仕事ではなかったり、思っていたより給料が安かったり、嫌になって辞めてしまう場合が多い。それでは根本的な支援にはならないと思うんです。その場での解決策ではなくて、将来的なことも考えた場合、元選手たちにキャリアチェンジするための環境を提供したいなと。得意なことを生かしながら、新しいスキルを身に付け、人脈を広げて、自分の可能性を模索する。もし自分が現役の時にこのシステムがあれば手を挙げて参加したと思うので、それなら自分で作ってしまおうと(笑)」

高校時代の体験が原動力「ああいうことが、これから先もあるんじゃないかと」

 みんながやっていないことをしたい。不可能だと言われても、行動を起こすことで笑顔になってくれる人が増えるのであれば切り拓いていきたい。

 柴田氏の原動力となる想いは、高校時代の経験に基づいている。小学6年生の時に投手として全国制覇。ボーイズリーグでも頭角を現し、中学生の時には日本代表としてその名を全国に轟かせた。が、中学3年生で厚生労働省指定の難病「ベーチェット病」を発症し、医師から野球を続けるのは難しいと言われた。それでも野球がしたい。愛知の強豪・愛工大名電に進学したが、他の部員と同じ練習はできず、病気を恨んだ時もあった。

「スポーツ特待生なのにいつもマスク姿で、体育の授業も得点係だったんです。ステロイド薬の副作用で顔はパンパンに腫れるし、『あの子なんで野球部なの』っていう声も聞こえる。思春期だったので自分が入学してよかったのかなと悩むこともありました。でも、倉野(光生)監督夫妻が親身に向き合って下さったんです。

 体調次第でできる練習が全然違う。『今日はここまでやってみます』とやった途端に倒れたり、倒れると数日間動けなくなるので身体と会話をしながら練習をしていました。監督は正直、面倒臭かったと思うんですよ、こんな部員。でも、監督も奥さんも顔に出さずに向き合って下さり、本当に感謝しかありません」

 文字通り、必死の思いで練習を続けた柴田氏の姿を、野球の神様はちゃんと見ていた。3年生の夏に甲子園に出場し、憧れのマウンドに立った。柴田氏自身を含め、誰も想像しなかった現実が、そこにはあった。

「夢じゃないかと思いました。今でも信じられないくらい。でも、ああいうことが、これから先もあるんじゃないかと思って、だから今もワクワクして生きていられるんだと思います」

 野球選手としての計画は25歳で終え、今は新たな一歩を踏み出している。イメージ通りには進まなかったキャリアだったかもしれないが、そこで経験した躓きや喜びがあるから、今がある。実現をいぶかる声はあるかもしれないが、まずは東南アジアを舞台とした新しい野球支援の形を創り上げてみせる。(佐藤直子 / Naoko Sato)

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