【明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年】 No.191

▲円通寺にある天野八郎顕彰碑(東京都荒川区)

(8月28日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

香車の最期

 「北にのみ稲妻ありて月暗し」  これは、彰義隊の実質的リーダーであった天野八郎の辞世の句である。

 上野の戦いに敗れた八郎は、先に寛永寺から脱出していた北白川宮能久親王を追った。だが彼は、この時100人ほどの隊士を率いていたため、人目に付きやすいということから、同行は許されなかった。

 そのため、音羽の護国寺や青山の梅窓院など各所を転々とし、他の隊士たちも、再挙を期して市中へと散らばった。

 この時八郎は、頭取並の大塚霍之丞とともに、墨田川沿いの本所石原町で炭屋を営む、石原文次郎邸に潜伏した。

 だが、7月13日、残党狩りのため、市中を探索していた東征軍の兵士によって踏み込まれた。

 すぐさま庭に飛出した八郎は、屋根に上って逃れようとしたが、銃弾を受け、捕縛された。

 伝馬町の獄へと繋がれた彼は、そこで、彰義隊の結成から戦いの顛末を書き記した。

 「斃休録」と題したその記録は、彼の遺書でもあった。

 11月8日、八郎は獄舎において病死した。享年38。香車のように一直線に突き進んだ男の最期であった。

(続く。次回は9月11日付に掲載します)

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