燕・館山、1000奪三振まで残り2も「興味ない」 畠山、最後の打席は「全力で」…一問一答

つば九郎から花束を受け取るヤクルト館山昌平(左)と畠山和洋(中央)【写真:編集部】

会見後の囲み取材でも“秘話”が続々…9度の手術も「同じ野球人生を」、引退試合は「ヘッドスライディングで」

 ヤクルトは13日、今季限りでの現役引退を決断している館山昌平投手と畠山和洋内野手の引退会見を都内で行った。会見後には囲み取材が行われ、会見で伝えきれなかったさまざまな思いが明かされた。

【引退会見】

――まずは引退に関する発表を。

畠山「本日は私の37回目の誕生日パーティーにご出席いただきありがとうございます(笑)。今シーズンで現役生活から引退することを決意しましたことをご報告させていただきます、ありがとうございました」

館山「私、館山昌平は今シーズンを持ちまして現役を退くことをここにご報告させていただきます。これ、難しいですね。普段言わない言葉だから噛んじゃうな」

――引退を決意したのはなぜ?

畠山「今年1年、思ったようなパフォーマンスができなくて、かなり苦しい時期を過ごしましたが、やめると決めてからは逆にすっきりしたというか。本当に野球を楽しむことができている。本当に幸せな野球人生だった」

館山「正式に決めたのは今月に入ってからなんですが、それに向かって17年間悔いなく試合に向けて全力でやってきたので、後悔はない。その一点です」

――決意に至るまでにどのような変化があったのか

畠山「故障が原因です。去年を最低のパフォーマンスと考えた時、走ることは半分のパフォーマンスも出せない、走らないからパフォーマンスが上がらない。だからバッティングしようとしても故障繋がってしまうといった悪循環が続いていた。自分のパフォーマンスが全盛期に比べて明らかに落ちていたので、引き際というか、体の方がもう無理だと訴えかけてきていた。真摯に受け止めて、ユニホームを脱ごうと決意した」

館山「チームの力になれなかったこと。今季は2軍で先発させていただいて、1軍のチャンスは伺っていたのですが、力になれない時間の方が長く、身を引こうと決めました」

――いつごろから変化があったのか?

畠山「(春季)キャンプから下半身のコンディショニング不良で別メニュー調整が続き、自分の中ではオールスターまでに道が見えなければ今年で終わりなのかと思っていた。前半戦でそこまでに持っていけなかったのがすべて」

館山「常に1軍で投げることを目標にしてきた。なかなかチャンスを自分の力で取りに行けなかったのが退こうと思った理由ですが、たくさんの怪我もしましたし、そこからマウンドに戻って先発、中継ぎと色々経験した。今でも1軍でアウトを取ることはできるんですけれど、試合を支配して、チームを勝ちに導ける投球ができなくなってきたのが要因」

館山の記憶に残る試合は…「3度目のトミー・ジョン手術から復活した試合」

――引退を決意するにあたって相談した人は?

畠山「家族にはあまり見せたくなかったが、最終的にはしっかり話して決めた。誰と決めたというより、家族に支えられて頑張った結果が引退だった。家族には『お疲れ様でした』と言っていただきました」

館山「僕の場合は弱さを見せないというより、家族とともに戦ってきたという方が大きい。常日頃から弱みもみせますし、妻とは16年間、娘とは11年間一緒に話してきた。前を向く話も、あきらめる話もしてきたので、家族の中で完結しました。『お疲れ様でした』という言葉を(もらった)」

――チームの中では?

畠山「館山さんに」

館山「言わなきゃいけない雰囲気だからね(笑)」

畠山「いや、実際話しましたよ。決めた後、僕は来年どうしようというのはあったので、チーム内でこういうことをしゃべる人もなかなかいないので、館山さんとよくしゃべった。決めた時も最初に報告した」

館山「ハタケ(畠山)にも相談しましたし、1軍にも仲いい人はたくさんいるが、やはり戦っている人たちと僕たち退く人たちは分けて考えなければ。選手というよりは家族ですね」

――引退を決意したからこそチームにかけたい言葉は?

畠山「僕たちは先輩方に『最低一度は優勝してから引退しろ』と言われて、実際和の中心に入れてもらって、その幸せは何事にもかえがたい。現役生活上がるまでに必ず優勝をしてもらいたい」

館山「僕の大学1年生の時に同じリーグの石川さんを見て、ずっと憧れがあった。同じチームで17年間背中を追いかけてきたわけですが、チームによき背中、よき仲間、よき同士がいた。切磋琢磨して、自分がうまくなりたいという気持ちをもっと前面に出して、後輩たちにももっとチーム同士の絆を深めていっていただければ、チームはよりいい方向に向かうのでは」

――石川には報告をしたか?

館山「登板が近かったので、石川さんは勝ち頭ですし、大切な時期なので。次会ったら話そうということはありましたが、電話ではいい話をいただきました」

――記憶に残る場面は?

畠山「やっぱり優勝した最後の試合で、サヨナラで勝った試合。ファンの方の応援が、地鳴りのような応援が僕らにも届いていて。こういう中で野球できる幸せがすごく大きかった。また2軍生活を考えると、(当時)監督だった小川監督含め、猿渡コーチとものすごいランニング、ものすごい練習をしたというのが記憶に残っている」

館山「3度目のトミー・ジョン手術から復活した試合。5回途中で降りてしまって、チームに勝利を持ってくるような投球はできなかったんですけれども。シーズン中盤で、まだ抑えにイニング跨ぎをさせる時期ではなかったんですが、高津コーチが『今日の試合は絶対勝たなくちゃいけないんだ』と。セットアッパーの外国人たちも賛同してくれて、バーネットがイニング跨ぎをした。ベンチで見ていて、高津コーチがコールした時に僕もう、(泣きそうで)だめで。後ろに下がった。自分が投げたということよりチームとしてすべてが繋がった試合。自分が抑えた試合とかは特に(印象に)ないが、あの試合だけは忘れられない」

畠山はコーチになったら厳しく指導? 「説得力がないと思う(笑)」

――現役時代の悔いは?

畠山「ファンの方もご存じかと思いますが、練習嫌いとして有名な部分はあったので、真面目にやった自分を見てみたい。ないですけどね、こんな自分だからここまでこられた。ただ興味はあります。悔いはない」

館山「僕も一切悔いはない。失敗をどうにか成功に結び付けての繰り返し、いい経験をさせていただいた」

――青木宣親選手からはどういった刺激を受けたか?

畠山「技術的なところで行ってもメジャーを経験して、日本で見ていた青木さんを上回って帰ってきた。トレーニングとの向き合い方も勉強になりました。怪我で2年位離れて、もう戻れないかなと思っていたところで青木さんに出会えてやる気になれた。(青木さんには)ねぎらっていただきました」

――「松阪世代」がどんどん引退しているが

館山「あまり他球団同年代と競ってというのはなかったんですが、高校生、大学生でお手本にしていた選手たちとお互い切磋琢磨して競っていたとは思うけれど、松坂君がどうだ、藤川君がどうだというよりはチーム内の先輩後輩から受けた影響の方が強い」

――テレビなどでは活躍をみていたか?

館山「同年代の刺激というのはありました。皆さんスター選手なので引き際を自分で決めると思いますが、自分なりの引き際というのがあり、僕はここだよと報告はしました。いつかみんなが現役を退いたときに、答え合わせをしたい」

――今後について。

畠山「本当に何もまっさらな状態で、報告できる状態ではない。今年後半戦特に2軍生活が続く中で、若い選手に僕だったらこう教えると思いながら試合を見ることが多かった。指導者としてやってみたいと思います」

――コーチになったら若手には厳しくする?

畠山「説得力がないと思う(笑)。たくさんやることが正解とは思ったことがない。できる限り頭を使って、効率よく、野球の試合で生きる練習をしてきたつもりなのでその経験を伝えたいなと思います」

――同じく館山投手の今後は?

館山「僕も考えていない。なかなかここまで怪我した人も多くないでしょうし、復帰にはこぎつけた。なんか伝えられることがあるんじゃないかなという思いがあります」

――最後にファンの方にメッセージを

畠山「ファンの方の応援があってこそ、ここまでプレーできたと思う。時には厳しい声をかけていただいたり、それ以上の結果を出したときには一緒になって喜んでくれた。ファンの方と優勝できたのが僕の誇り。若い選手もかなり育ってきていると思いますし、そういった選手たちがヤクルトをまた優勝できるチームにしてくれる。変わらず(チームを)応援してほしい」

館山「神宮球場には(現役時代の)半分くらいしかいなかったですが、どんな時でも温かい声援をいただいて。怪我をするのは自分の責任ですが、そこから復活できたのはファンの皆様の笑顔を見たかったから。ヒーローインタビューの景色がすごく好きなんですね、そこにまた立ちたいと思って乗り越えられた。こういう選手がいたら目を向けてあげてほしい。もっともっとヤクルトファンが、ヤクルトの中心なんだと思って接していただけるともっといいチームになる。本当に、17年間ありがとうございました」

会見終了後の囲み取材でも続々と“秘話”が…館山「まだ上手くなりたいと思える」

――なぜ9度の手術を乗り越えてここまでこれたと思うか

館山「心が折れることもありました。家族には本当に迷惑をかけたと思います。リハビリってうまくいかないことも多いし、それを包み隠さず報告して、すごく仲がいい家族なんですけれども話せなくなるくらい辛くなることも。けれど話したことがよかったと思います。だからこそ家族は辛い思いもしたと思いますが、家族と戦ったから戻ってこれたと思う」

――この経験をどう伝えたいか

館山「難しいですね。怪我は自分の責任で、痛いのは自分しかわからない。そこでブレーキを掛けられるかですが、自分の場合は支配で押さえたい、バッターをアウトにしたいというのを優先して体に負担をかけた。今の時代は投球制限とかもありますし、これから野球がどんどん代わっていくと思っている。2011年ごろに血行障害を発症してドクターに、これは人間が4足歩行だった時の名残だからと言われた。そこまでいったらどうしようもない部分もある。怪我は切っても切れないスポーツなんだと。指導方法というよりは、何か(環境が)変わっていくことが大事だと思います。まずはしっかりした勉強をしたい。今は球数制限などはっきりした正解が出ていない。1球投げたらどれだけの負担がかかるのとか、どんどん解析されていけば怪我も減ると思う」

【引退会見後の囲み取材】

――自分を誇りに思えることは。

館山「まだ上手くなりたいと思えること。明日からも平塚行くんですが、まだ投げるチャンスがあれば投げたいし、まだやってみたいなと思うことがあるのでウォーミングアップをしっかりやっている。まだ前を向いている」

畠山「プレーでいえば……」

館山「広島戦の三盗だな?」

畠山「(笑)。大した事じゃないかもしれないし、大した成績も挙げてないですが、取れる点を絶対取るというのを高い確率で遂行できた。簡単そうで意外と難しいことだと思う」

館山は1000Kまで「2」も…「投げるなら1人だけでいい、1人に全力で投げたい」

――今の経験を基に、若いころの自分に言いたいことは?

館山「やっぱり同じように怪我したいのかなと思います。怪我しなかったら見えなかったことがあるし、同じように、同じように無理するからこそ、こうやって自分でやめる決断ができると思う。全部が繋がっていたのかなと思う。あの場面でケガしてなかったらとか言うのはまったくない。プレーで怪我したことが大半なので。相手を抑えたいということに対して持てる力をすべて出し切ったから。同じように、同じ場面で(力を出し切って)、同じような野球人生を送ると思う。じゃないとファンの方からもらった感動を伝えられないですし、優勝の時もそうですけど。身震いして血行障害になったんですよ、そのくらい。良くない事だから言えなかったけど」

畠山「強いて言えばトレーニングしておけばよかった。去年、青木さんを見てトレーニングとの向き合い方が勉強になった。去年から取り入れたんですが、遅かった。若いころなら筋肉痛で終わったものが、痛みになってプレーに支障が出た。やり始めるのがあまりにも遅すぎた。若いころに知識があれば。毎日少しずつ続けるのが大事だった」

館山「でも20代のころにベンチプレス120キロ上げていた。できるからこそ、その上澄みをスイングに充てたりしていた。すごい器用なんですよ、投げられないようなドロップ(カーブ)とか投げる、ナックル(カーブ)とか。僕は投げられない」

畠山「山中に教えてくれと言われました(笑)」

館山「グリップのないバットも初めて見た。無頓着に見えて、とても繊細だ」

――21日の引退試合にはどういう気持ちで臨む?

館山「ファンの皆様に挨拶できるチャンスを与えられたので、少ない時間かもしれないですが。投げられるかはこちらが要望して叶うことでもないですが、改めてファンの方にしっかり挨拶したい」

――通算1000奪三振まであと2だが。

畠山「あとふたつ!?」

館山「長い間投げての結果だと思うし、新記録だったり歴史的なものだったら意地でもと思うかもしれないが、人によってはその数字は通過点かもしれない。全力で1軍でも2軍でもアウトを取りに行ったというのが自分の誇り。まったく興味ない」

畠山「そういいながら、最後の試合(セレモニー)で2人三振取るんでしょ」

館山「投げるなら1人だけでいい、1人に全力で投げたい」

畠山「ファンの方の前で思いを伝えたい。打席に立てるのであれば、内野ゴロで、一塁にヘッドスライディングしたい、って話をしていたら(塁に)届かないからやめろと言われた(笑)。きっと打席に立ったら打ちたくなる。けれど、全力で振りにいって、破れ散りたい。やっぱり無理なんだ、と思って終わりたい」

館山「こういう場でうまくしゃべれないから、手紙書きたいですね。新聞広告とかで、直筆で。こんなに中立でいいファンはいない」(Full-Count編集部)

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