剣豪 斎藤弥九郎「橋渡し」 漂流「長者丸」の次郎吉と徳川斉昭 

本を紹介する加部さん

 ■加部さん(小杉)研究・推測 自費出版

 射水市太閤山1丁目(小杉)の加部敏夫さん(69)が、江戸時代に漂流した北前船「長者丸」の船乗り、米田屋次郎吉と、氷見市出身の幕末の剣豪、斎藤弥九郎のつながりなどについて推測・分析した本を自費出版した。加部さんは「越中の人間の偉大さを知ってほしい」と話している。(新湊支局長・牧田恵利奈)

 現在の富山市四方西岩瀬の八重津浜を母港とした長者丸は1838(天保9)年に暴風雨に遭って漂流し、翌年に米国船に発見された。次郎吉ら乗組員はハワイやロシア、アラスカなどを経て43年に帰国。次郎吉らは5年ほど江戸に滞在した。江戸末期の漂流記「時規物語」によると、次郎吉は第9代水戸藩主・徳川斉昭の元へ行き、4時間近く異国体験を話したという。

 加部さんは次郎吉に関する講座を受講したことをきっかけに、長者丸のことなどを調べるようになった。一庶民が斉昭と会ったことに疑問を抱き、斉昭と次郎吉をつなげた人物を、別件で斉昭に進言した記録の残る弥九郎と推測した。次郎吉らの宿泊先と弥九郎の剣術道場が近く、東水橋村(現・富山市水橋地区)出身の宿泊先の主人・石黒長右衛門を介して2人は知り合ったと考え、「弥九郎が斉昭と次郎吉をつなげた記録はないが、そう推測している」としている。

 次郎吉らは、日本人で初めて米国に移り住んだジョン万次郎より先に世界の情報を伝えた。万次郎が江戸に来た時、多くの人が英語を教わろうとしたのは、次郎吉からの聞き取りでまとめられた漂流記「蕃談(ばんだん)」が知識層や幕臣の異人嫌いを払拭(ふっしょく)したためとみており「幕末の近代化に越中の人間が関係した」と推し量っている。

 本のタイトルは「越中売薬薩摩組の北前船長者丸 幕末異聞」。B5判で1300円(税抜き)。射水市の舟木書店や富山市のBOOKSなかだ掛尾本店などで扱う。

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