日産フェアレディZが50周年、世界的名車は「たった2人」から始まった

世界で最も成功したスポーツカーとも言われる日産フェアレディZ。そこには、現代のようにマーケティング優先のクルマ作りだけでは理解できない“クルマ作りに掛ける情熱”がたっぷりと詰め込まれていました。

50年前、そのきっかけを作った初代モデルのデザインと商品企画を担当した松尾良彦氏に直接お聞きした、誕生にまつわる秘話をお届けしたいと思います。ひょっとすると、今の日産にもっとも必要なものが、そこには隠されているのかもしれません。


純粋な思いが引き寄せた「幸運」

初代「フェアレディZ」が誕生したのは1969年、それから現行の6代目モデルまで50年間、多くの紆余曲折を経ながら、その名は受け継がれてきました。世界的にSUVがもてはやされる現在、純粋なスポーツカーは決して“稼ぎ頭”ではありませんが、日産にとって、いえ、国産車にとって重要なブランドのひとつとなっていることは間違いありません。

とくに初代モデルは世界総販売台数55万台、日本国内での販売台数8万台以上という、当時のスポーツカーとしては空前の大ヒットを記録したモデルです。もちろんそのヒットは日産自動車という極東のメーカーを世界の檜舞台へと一気に知らしめるきっかけを作ったクルマとなりました。その熱狂ぶりは現在でも日本国内はもとより、世界的にクラシックカーとしての人気や知名度はかなり高くなっていることでも理解できるでしょう。一部の相場ですが500万円から1,500万円などという話も聞こえてきます。

ところがデザイナーにして商品企画を担当した松尾良彦氏は「当時、スポーツカーなんか、まったく期待なんかされていませんでした」といいます。「個人的にはスポーツカーデザインがやりたい、スポーツカーが作りたい、という希望が叶って、新しい部署に異動したのですが、当初は私と部下が1名、計2名という体勢でした」ということですから、会社側の期待度が高くないことは理解できるでしょう。

当時、日産として、いえ他の国産メーカーも同じですがスポーツカーなどに大きな関心は無く、当然のように売れ筋のサニーやブルーバード、セドリックといったところが本流でした。

それまで日産には「フェアレディ」という2人乗りのオープンスポーツカーがありましたが、その販売台数は200~300台程度でした。当然、新しいスポーツカーを作ろうといっても「適当にやっていてくれればいい」という会社側の対応で、ほとんど期待されていなかったそうです。

ところが「会社から余計な干渉を受けずに済み、自由度も高くプレッシャーもなく新しいスポーツカーが作れたのです」と松尾氏。早速、「来たるべき70年代に国際市場、とくに主力市場ともなる北米市場で通用するスポーツカーはどうあるべきか」という発想でデザインに取りかかりました。

コンセプトは「実用性とスポーツ走行を併せ持ち、今後厳しくなる安全性や高速性を向上させること。外国市場で欧米製の新車に対して十分に戦える魅力的なスタイルと十分な居住性を持つこと。そしてちょっとしたチューニングによって、レースやラリーでも活躍出来るクルマを、手頃な価格で提供するため、量産に向く生産性のいい車体構造とすること。さらに日本の小型車枠の寸法に入れながらも、大柄な外国人が十分にゆとりを感じる室内と、そしてラゲッジルームも確保する」と、かなり欲張りなものでした。

おまけに月販は10倍以上の3,000台を目標にしたそうですが、それでも会社は夢物語として、真剣に聞いてくれませんでした。

こうした周囲の冷たい反応の中で松尾氏らはデザインを確実に行い、スケッチや縮小モデルを制作することで開発をスタートさせて、ついにクレイモデルを数案製作するところまできました。ところがこの段階になっても、まだ会社から正式なゴーサインは出ずに「このまま行ったら日の目を見ずに終わるかも」という思いも抱いたとのことでした。

松尾氏の提案した案のひとつで市販モデルにかなり近いデザインとなっています。「あまり好きではなかったが……」と松尾氏が言うデザイン案も比較検討のために提案されたといいます

ちょうどそんなとき、1人の重要人物が現れました。米国日産社長、片山豊氏です。帰国した片山氏の主目的は、ブルーバードという新しい売れ筋のクルマの開発過程をチェックするためで、スポーツカーのことなどは考えもしなかったそうです。一方で片山氏は北米でのイメージリーダーカーとしての役割を担い、高い収益性を持ったクルマ、つまりスポーツカーが欲しいと真剣に考えていました。

片山豊氏が目にし、「是非作ってくれ」と懇願したというデザイン案がこれです。ほぼ市販モデルの近いものとなっています

そんな片山氏に「若いデザイナーが自主製作しているスポーツカーがあるからご覧になりますか?」と進言した人がいたのです。すると片山氏はすぐに、松尾氏らが諦めかけていたデザイン案を見ました。そして一言「ぜひ、この新型スポーツカーを開発してくれ。販売は私が責任を持つ。必ず売ってみせる」と政策の責任者に話したことで実現したのです。

市販モデルの外観とインパネ。今でも十分に通用するデザインです

発売してたちまち大ヒット

その価格はファミリーセダンのブルーバードの2倍、当時のポルシェやジャガーの半額という設定を狙いました。そしてアメリカでは140万円を切る設定、国内向けでもベーシックグレードが93万円となりました。これは当時のスポーツカーとして、破格とも言えるリーズナブルな設定だったそうです。

こんな逸話があります。「北米での試験走行中に、警官から停止させられたのですが、違反したつもりはない。その警官は見たことのないスポーツカーが走っていたので、話が聞きたくて止めたのです」と松尾氏。興奮した様子の警官は「これは何というクルマだ? どこで、いつ発売するんだ?」と北米テスト班に質問の嵐だったそうです。

そして「4,000ドルを切る値段で売る予定だ」と伝えると「出たら絶対に買うよ!」と嬉しそうに彼は言ったそうです。案の定、初代「フェアレディZ」は69年に登場すると北米で人気爆発。予想を大幅に超えるビッグヒットとなり、すぐさま供給不足が起こり、プレミアムまで付いて販売されました。なんと最盛期には月産8千台を超えるという、それまでに経験の無い量販車となりました。もちろん日本でも大人気となったのです。

大成功を収めたことでバリエーションも続々登場。旧プリンス系の高性能エンジン、S20型という高性能エンジンを搭載した「432」。特別な存在として現在でも1,000万円を超えるクルマもあります

こうして初代「フェアレディZ」は2代目へとバトンタッチするまでの10年間で全世界の販売総数55万台、日本国内でも8万~9万台という、当時としては空前の台数が送り出されたわけです。その後、世界中のZファンから片山氏は“Zの父”、松尾氏は“Zの母”としてリスペクトされることになり、現在でも日本ばかりかアメリカでのイベントなどに招待されることが多いそうです。

空力性能を向上させることを目指し、フロントにGノーズを装着。アメリカマーケットのモデルだった240を日本に導入する際に差別化するためにGノーズやリアスポイラー、オーバーフェンダーを装備。このモデルも現在大人気となっています
ホイールベースとボディの全長を310mm延長してリアシートを装備した4人乗車の「2 by 2」

スポーツカーはこれからも“象徴”なのか?

そんなエポックメイクな「フェアレディZ」も代替わりしながら来ましたがスポーツカー人気が低迷すると2000年に一度、生産が中止されました。しかし、ブランドを確立してきた象徴的なモデルの必要性を説いて復活させたのが、あのカルロス・ゴーン氏です。

ちなみに世界のスポーツカー好きを熱狂させているGT-Rもゴーン氏がスカイラインGT-Rの後継車種として製造を指示したクルマです。このところの日産はクルマ作りよりも、企業としての姿勢を問われているといえます。

ひょっとすると今後、実利を優先せざるを得なくなると「フェアレディZ」やGT-Rのようなスポーツカーは、姿を消すかもしれません。それでも、こんな時期だからこそ“夢を語れるクルマ”を残さないといけない、などと考えるのは、クルマ好きの我が儘なのでしょうか。

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