料亭あいちや、66年に幕 戦後復興から横浜下支え

 横浜屈指の料亭として愛されてきた「あいちや」(横浜市西区)が、来年1月いっぱいで閉店する。創業から66年。現在は女将(おかみ)の岩井純子さん(72)、社長の岩井昭廣さん(68)姉弟が切り盛りしているが後継者がおらず、決断した。戦後復興、高度経済成長、バブル崩壊と横浜の歩みを見続けてきた社交場で、きめの細かなもてなしが評判だった。閉店を惜しむ声が上がる中、往事の横浜の料亭文化を今に伝える老舗の明かりは、間もなく落とされる。

 横浜駅西口から徒歩5分、ビルの谷間に1軒の日本家屋がたたずむ。風格ある門をくぐり、石畳を踏んで玄関に入ると、たきしめた香の香りが漂う。全室個室の和室は静寂に包まれ、表の喧噪(けんそう)がうそのようだ。

 創業は1949年、純子さんらの母親と伯母が営む小料理屋から始まった。カウンターと小上がりの小さなお店は「いつも繁盛していた。早朝の市場での買い出しから深夜の閉店まで、母と伯母は働き者でした」と昭廣さん。きょうだい2人も手伝い、「あの活気が全ての原点」と懐かしむ。

 戦後間もない開店当初、周囲は石炭や砂利などが積まれ、土ぼこりが舞い上がる寂しげな場所だった。建物も少なく、木造の横浜駅を見通せた。しかし中心地が関内や桜木町から横浜駅周辺に移り、59年に現在の高島屋横浜店が開店すると、「裏口」と呼ばれ閑散としていた西口は様変わりした。

 周囲の変化に伴い、店も成長した。戦後復興を足元で支える町工場の従業員の飲食に始まり、やがて京浜工業地帯の大企業の接待で利用され、都内から官僚や企業幹部が足を運ぶようになった。

 最盛期の60年代後半から80年代前半には、帰宅のためのハイヤーが玄関先から数百メートルほど数珠つなぎになるほどの盛況ぶりとなった。現役引退後も足を運んだり、親子3代で利用したりする常連客が今もいる。純子さんは「テレビなどで(旧知の客の)お元気そうなお顔を拝見するとうれしくなります」と相好を崩す。

 純子さんは、93年に先代の伯母が亡くなったことから女将を引き継いだ。店として常に心掛けるのは「ゆったりとした空間を提供するおもてなし」(昭廣さん)だ。レストランの格付け本「ミシュランガイド」に掲載された旬の料理はもちろん、備前焼や清水焼など一流の器を用い、平山郁夫ら大家の絵画を飾るなど、雰囲気づくりにこだわり抜く。

 こうした店の格式を守るための営みは、非常に緊張を強いる。「女将は簡単には務まらない」と純子さん。きょうだいが年を重ねる中で志を継ぐ身内はおらず、今回、閉店を選択することになった。

 「母と伯母がつくってくれた店を残せず、申し訳ない。続けてあげたかった」と昭廣さん。純子さんも「忸怩(じくじ)たる思いはある」と話しつつ、こう続けた。「でも、ご苦労さまと言ってくれると思います。板前はじめ従業員にも支えられた。横浜、日本経済の発展を下支えできたのであれば光栄です」

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