
「墓マイラー」をご存知だろうか。
墓を巡ってマイレージをためる人のことではない。
昨今、墓参りが趣味の人をそう呼ぶらしい。参るのは、歴史上の人物や著名人の墓。そのルーツは江戸時代にさかのぼる。
趣味としての「墓参り」は、江戸時代「掃苔(そうたい)」と呼ばれた。
字のまんま、墓石の苔を掃きながら、様々な思いを馳せたという。
墓石の拓本、有名人のお墓カタログ「掃苔録」もあり、現代の「墓マイラー」にあたる「掃苔家」と称する人もいたらしい。
「掃苔家」の筆頭は『南総里見八犬伝』の作者・滝沢馬琴。さらに森鴎外、永井荷風といった文人の名前も挙がる。
作家の山崎ナオコーラさんが、『文豪お墓まいり記』(2019年・文芸春秋社)という本を出している。雑誌の『文學界』に連載されていたので、私もたまに読んでいた。
文豪のお墓をご主人と一緒に訪れて、霊園近くで腹ごしらえをしたり、ちょっとしたお供え物を手に墓参りをしている描写が面白かった。
でも、一体何が楽しくて赤の他人の墓を参るのだろう?
ちょっと興味をそそられたので、私もやってみることにした。
墓マイラーとしては、誰に会いたいかというのもあるが、どこの墓地に行くかが悩みどころだ。
由緒ある青山墓地や鎌倉の墓所もいいのだが、私の幼い頃の思い出と重なる「多磨霊園」へ自然と足が向いた。
武蔵野の一帯が昔から好きだ。
「ハケ」と呼ばれる崖線がかたどる丘陵には湧き水も出る。
多磨霊園は、子どもの私にとって都会との「結界」であり「異世界」だった。
1970年代、多磨霊園の最寄駅である多磨墓地前駅(現多磨駅)は、瓦屋根に洋風な白いペンキ塗りの垣根が可愛い小さな駅だった。
まだ米軍エリア「関東村」の名残もあり、アメリカンスクールの生徒がスケボーでピューンと飛び出してくる気配がした。
多磨霊園が開園したのは大正時代。
ドイツの公園墓地をお手本に作られ、日本の墓地開発のモデルと言われている。確かに陰気さはなく、景観を重視した空間が心地よい。
多磨霊園は、墓地というよりも、野川公園と浅間山、むさしの公園などに連なる巨大な森だった。

90年代、私は『フローズンナイト』(フジテレビ『世にも奇妙な物語』のパイロット版)の撮影で再びこの地を訪れた。
私の役は、墓地でタクシーを拾う謎の女。故・左とん平さんがタクシー運転手の役。二人の掛け合いでいくつかのエピソードをつなぎ、最終的に私が幽霊に化けて運賃を踏み倒す。多磨霊園の暗闇に、私の赤いレインコートがやたらと映えた。
そんなことを思い出しながら加藤道夫さんのお墓へ向かった。
女優の先輩・加藤治子さんの元夫で劇作家の加藤道夫さん。誰かがネットに上げてくれているので、お墓の場所はすぐにわかった。
加藤道夫さんのお墓と対面。線香を焚いて合掌した。
実は、加藤治子さんの本を通じてしか道夫さんを知らない。
それなのに、私は独りでずっと墓石に向い、治子さんの本に書かれていたチェーホフの劇の話などをとつとつと喋っていた。
土の小径を歩けば、落ち葉がふかふかと足裏に心地よい。
のら猫にも遭遇。
「あら、三島由紀夫さんのお墓はどこかしら?」
猫はしなやかに伸びをすると尻尾を立てて10区の方へ歩いていく。三島由紀夫のお墓は10区だった。
「三島、三島」と探しながら、私はそこを3度も回ってしまった。
「そうだ! 三島由紀夫は本名じゃない、平岡公威!」
はたと気づくと、墓は目の前にあった。
遠くからなぜか聞こえる篠笛の音。
お墓のある空間は、静謐そのものだった。
手入れの行き届いた品の良い樹木が2本。
線香を焚きながら、私は三島の墓石に話し始めた。
「あの小説のあそこが面白かった」「どうやったらあんな風に書けるのか?」「知り合いに三島由紀夫文学賞を受賞した人が2人もいますよ」云々。
実際、三島由紀夫を目の前にして、こんな話ができるわけもない。私が独りでペラペラと喋っていたら、周りは異様に感じるだろう。
なのに、この「掃苔家」としての行為は、実に自然で穏やかな時間だ。しかも、なぜか心がスッとする。

思えば、幼い頃から墓場で遊んでいた。
卒塔婆に書かれた文字がオドロオドロしかったけれど、怖くはなかった。墓石は冷んやりと気持ちよく、苔が生えていたりすると壮大な時の流れすら感じられた。
横浜の外人墓地でもそうだった。
映画『小さな恋のメロディ』じゃないが、墓場でデートをしたことがある。
墓碑に刻まれた文字を読むのが好きで凝視していたら、彼から墓地でデートなんて気味が悪いと言われた。
今では一緒に歩いてくれる人がいる。
いろんな墓のデザインを共に楽しみ、のら猫にいちいち話しかける私を面倒くさいと思わないでくれるその存在は、本当にありがたい。

多磨霊園を最後に参ったのは、岡本太郎の家族墓地。
母・かのこの墓。その隣が父・一平の墓。そして太郎の墓。
土俵の中に、家族のお墓が微妙な距離感で並んでいて、シュールな家族団らん風景にもみえる。
詩人であった岡本かのこの墓は観音立像の姿をしている。
一説によると、かのこは太郎以上にぶっ飛んだ母親だったらしい。
父・一平の墓は、なぜか岡本太郎の作品「かのこ像」が原型。ふくよかな胸は、供花を手向けられるように大きな椀状になっている。
岡本太郎と敏子の墓は「午後の日(1967年)」という太郎の作品で、選んだのは敏子自身だそうだ。
さらにそこへ、川端康成による追悼文が彫られている碑もあった。

〈追悼文の一節〉
「家族というもの、夫婦親子という結びつきの生きようについて考える時、私はいつも必ず岡本一家を一つの手本として、一方に置く。 この三人は日本人の家族としてはまことに珍しく、お互いを高く生かし合いながら、お互いが高く生きた。深く豊かに愛し敬い合って、三人がそれぞれ成長した。 古い家族制度がこわれ、人々が家での生きように惑っている今日、岡本一家の記録は殊に尊い。この大肯定の泉は世を温めるであろう」(川端康成『母の手紙』序より)
岡本家は常識ではかりきれない家族だったというが、あらためて家族とは不思議な縁だと感じた。

私にも家族の墓がある。
父が生前、母と息子家族と一緒に入るために用意した墓だ。
東北生まれの昭和の頑固オヤジ。高度成長期を生き抜き、身勝手なやり方でしか家族を愛せないひとであった父の、最後の家族団らんのつもりだったのだろう。
今年5月に父を亡くし、そこからその墓参りを始めた。
新盆の中日、雨上がり大きな虹が出たので仰ぎ見ると、墓越しに山の稜線の風景が父の故郷の原風景に重なった。
私はちょっと驚き、さっそく墓の前で語りかけたが、言葉は風に舞ってどこかへ消えていくだけ。
「そこに私はいません」と言わんばかりに。
「墓マイラー」という言葉にいまいち乗れない私だが、「墓を参る」という行為は心穏やかになれる良い行いだ。
死者と語らいながら季節の趣を味わう。これからお墓について考える者にとっての結縁をも運ぶものかもしれない。
あなたもお彼岸にお墓を参ってみてはいかがだろうか。(女優・洞口依子)