【山岳医療の現場に密着】パトロールを行うドクターたちが伝えたい「本当に大切なこと」 日常生活に於いて欠かせない医療。 下界なら必要な時にすぐに治療が受けられ、有事の際には救急車などでの救急搬送・緊急対応も可能です。 が、万が一、山の中で治療が必要な状態に陥ってしまったら…。 すぐに病院に行くことも、救急車両が駆けつけることも困難です。 そんな山岳という特殊な環境下で、「ひとりでも多くの登山者を救いたい、無事の下山に導きたい」と、認定山岳医・山岳看護師の方々が情熱を傾け、ボランティアで活動しているのをご存知ですか?

山岳医療の現状 ~山岳診療所~

北アルプスや富士山など、特に入山者が多い山域にて、「山岳診療所」を見掛けたことがあるハイカーは多いことだろう。 山小屋に併設されるこれらは「夏山診療所」とも呼ばれ、登山シーズン期に限定的に開設される救護所だ。

そして、「あぁ確かあそこの山小屋にあったな…利用したことはないけれど」という方がほとんどではないだろうか。 むしろそれはとても良いことであり、無事に山岳レジャーを楽しめている証だ。

とは言え、大自然というフィールドの中では、いつ何時 自身が要治療者になるかはわからない。今回、山岳という厳しい環境にて、我々ハイカーの安全のため ボランティアで医療パトロールを行なっているドクターたちに密着取材する機会を得た。驚くほどの情熱と真摯な想いで安全登山を啓蒙するドクターたちの活動を目の当たりにし、まだ広く知られていないその活動内容をぜひここに共有させていただきたい。

山岳診療所は北アルプスに集中

(槍穂連峰・涸沢)

まず、皆さんは日本に存在する山岳診療所の数がいくつあるかご存知だろうか?
調べてみると全部で22の診療所が存在していることがわかった。その内、実に17箇所が北アルプスに在り、残りは南アルプスの北岳に1箇所、白山に1箇所、そして富士山に3箇所ある。

簡単には増やせない実情

(薬師・裏銀座・三俣)

現在開設されている山岳診療所のほとんどは、バックボーンに大学医学部との連携があり、各大学の勤務医や大学出身者の医師や看護師、ならびに現役医大生が運営にあたっている。 彼らは自身の休日を山岳医療の時間に充て、ボランティアとして山に入り活動しているのだ。 想像に難しくないが、医師不足という人的リソースの課題は各診療所共通の悩みであり、常に医師や看護師を求めている。

また環境面や資金面でも課題はある。 山小屋併設という環境から、山小屋そのものに診療所に充てられる十分なスペースがあることが大前提であり、器材や薬剤、治療費など、運営に関する費用を募金でまかなうケースもあるほどだ。

そのため、診療所を登録・開設することのハードルは極めて高いだけでなく、現存診療所の運営維持も易しくはないのが実態だ。

黒戸尾根で始まった新しい取り組み

(積雪期の鳳凰山より望む甲斐駒ヶ岳)

前述のとおり、南アルプス全体で山岳診療所は北岳にわずか1箇所しかない。 しかし、どこの山へもアプローチが長い南アルプスの広大さは、多くのハイカーが知るところだ。

2017年7月、広大な南アルプス全体で圧倒的に不足している山岳診療所問題について、日本登山医学会は「山岳医療パトロール」という活動を開始した。

それは、これまでの「患者が診療所に来る」という形ではなく、「医師自らが登山者側に歩み寄る」という全く新しいコンセプトの活動だった。

七丈小屋が活動基地に

(黒戸尾根のオアシス的存在)

2016年末、七丈小屋の新たな管理人にピオレドール賞受賞の登山家:花谷 泰広氏が着任。 日本登山医学会の構想に、花谷氏が賛同したことがきっかけとなった。
医師たちは七丈小屋をベースキャンプとして活用できるようになり、甲斐駒ヶ岳山頂を往復するパトロールの実現を可能にした。(※2018年より北杜市もこの活動を支援、三位一体となっている)

甲斐駒ヶ岳の黒戸尾根は急登が続く日本屈指のクラッシックルート。 深田久弥に「日本アルプスで最もきついルート」と言わしめたここは、登山口から山頂まで約2,200mと驚愕の標高差を誇る。そして、この長い難ルートに唯一存在する山小屋と水場が七丈小屋だ。この小屋なくしては、多くのハイカーは立ち入ることが困難なのである。

山岳医療パトロール、その活動の内容

今回、当該活動立ち上げにあたり創設された「認定山岳医委員会」の委員長である草鹿 (くさか) 教授 (国際山岳医) と「山岳医・山岳看護師活用小委員会」の広報担当である江村院長 (同) と行動を共にした。

当該パトロール活動期間は、毎年7月下旬~10月初中旬の週末となっているが、実は取材予定の2日間の天気はかなり危ぶまれた。 しかし、台風などの暴風でない限りパトロールは実施される。 当該活動への医師たちの強いディタミネーション (決意) はそんなところからも滲み出ている。

(甲斐駒ヶ岳山頂にて登山者の血中酸素濃度を測定する)

主な活動内容を聞くと、その7割が「事故やケガ、病気などのトラブル未然防止の啓蒙活動」、2割が「疾病やケガの調査」、残る1割が「実際の治療や下山補助」とドクターたちは語る。 ここ黒戸尾根は、比較的レベルの高い登山者が入山することから、実際の治療行為に及ぶことは1シーズンで数件だそうだ。

だが、「山岳医療パトロール」に於いてもっとも重要なのは、前述のとおり我々ハイカーに起こりうる潜在的な事故やケガ、病気などのトラブルの未然防止そのものであり、要治療者を作らないことだ。 何も起きないのが誰にとっても最善であることは間違いないのである。

(強風吹きすさむ中、数時間に亘る活動を行なう)

小屋や山頂への道中でも登山者に声を掛け、顔色や表情、会話から体調等を確認する。

山頂では、動脈酸素濃度計にて登山者のメディカルチェックを行なう。 医学的アドバイスの実施や質疑応答、および調査のためのアンケート記入のお願いなどを行なうが、山頂滞在時間はおよそ3時間にも及ぶ。 天気に恵まれればまだ良いが、日がなく風が強い日などの苦労は相当なものだ。

しかし多くの登山者は、普段滅多に機会のない酸素飽和度測定や、医師たちからの貴重な話に積極的に耳を傾けており、啓蒙活動の意義深さは如実に感じられた。

山小屋でのミニレクチャー

(夕食の時間を活用した啓蒙活動)

また、七丈小屋では夕食時に医師たちによるミニレクチャーが開催される。 高山病や低体温症、熱中症など、山岳にまつわる症状について、その発症メカニズムと対処法、事前回避の方法などをレクチャー。 これらも知っているようで正確には理解されていない事や目からウロコ的な情報もある。

(レクチャー後、個別相談に乗る草鹿教授)

加えて、レクチャー後の医師たちによる個別相談の時間がまた貴重だ。 登山中に経験した体調不良や疲れない歩き方のコツ、行動食の効果的な摂り方など、登山時に感じていた多くの疑問を国際山岳医にぶつけられる機会とあって、個別相談は大賑わいだ。
この様な体験は、登山者の安全意識やリスク管理意識の更なる向上に繋がっていくに充分なきっかけになる。 そして、知り得た安全登山へのヒントを各ハイカーが山仲間に伝播しそれが広がっていけば、結果として未然のトラブル防止に繋がっていくのだ。

ドクターたちが目指す山岳医療の未来

2017年から始動した山岳医療パトロールも既に3年目を迎え、医師たちの今後の考えを聞いた。

——広大な南アルプスというエリアに於いて、現在の山岳医療パトロールをまずはファーストステップとして活動しています。 同様のパトロール活動は現在、甲斐駒黒戸尾根に加え、乗鞍岳、そして来年度には八ヶ岳の編笠岳にても開始。 メインはやはり登山者への注意喚起、啓蒙活動による未然のトラブル防止です。
そしてその先に目指すのは、南アルプスにおいて特に入山者が多い「北沢峠」と「広河原」での診療所開設。 より多くの登山者が安全無事に帰宅できるよう、磐石の体制で登山者を迎えられる医療体制を整えたい。 それが我々認定山岳医が目指すところです。

草鹿教授・江村院長ともに、「医療知識と技術」「山岳技術と経験」を余すところなく活用し、我々ハイカーの安全を守るため、自身の休日を投げ打って無償で活動している。 そしてそれは彼らだけではない。 当該活動に参与している医師・看護師すべてが同じ熱き想いで取り組んでいる。

人命を救うことができる知識と技術、それはつまり一握りの特別な才能を持った人たちだ。 そんな医師たちが山岳というフィールドで、同じく山を愛するハイカーのため、人知れず活動してくれていることの心強さと安心感は非常に大きなものであり、それをより多くのハイカーに知って欲しい。

七丈小屋含め、多くの人々が関わっているこの活動だが、しかし何より、まずは我々ハイカーが安全意識を向上させ、おのおので出来ることはしっかりやって安全登山に臨みたい。 それが第一の、そして何よりの防止策であるのだから。

取材協力

■草鹿 元
日本登山医学会理事
日本登山医学会認定山岳医 委員長
自治医科大学附属さいたま医療センター脳神経外科教授
栃木県勤労者山岳連盟 野木山想会副会長

■江村 俊也
山岳医・山岳看護師活用小委員会 (広報担当)
医療法人江村医院 院長

■花谷 泰広
甲斐駒ヶ岳 七丈小屋
運営管理 ㈱ファーストアッセント代表

監修 草鹿 元(上述)
取材・文 三宅 雅也(山岳ライター/長野県自然保護レンジャー)

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