忘れじの歌舞伎町ディスコナイト、東亜会館の夏は今も続いていた! 2019年 8月31日 「Back To The 80’s 東亜~あの日に帰ろう~」が新宿FACE で開催された日

8月31日。夏休みの終わりに相応しい懐かしの80年代を懐古するとびっきりのイベントが歌舞伎町のど真ん中にあるヴェニュー、新宿 FACE で行われた。

その名も『Back To The 80’s 東亜~あの日に帰ろう~』。それは、80年代半ばに隆盛を極めた高校生主体のディスコシーンが1日限りで復活するというもの。2001年にスタートしたこのイベントは今回で記念すべき20回目を迎えた。

東亜とは、歌舞伎町にあり、かつて4つのディスコが入っていたビル東亜会館のこと。僕がここに通うようになった84年に営業していたディスコは以下の通り。

サーファーに好まれ、店内にサーフボードのブランコがあった B&B。ちなみにB&Bとは、Beach&Breeze の略。

原宿ローラー出身の DJ がいてロカビリータイムなどもあり、選曲の幅が広かったグリース。

バンプ(基本的に二人が寄り合ってぶつかるように踊るスタイル)が盛んで、アクロバティックなダンスがフロアを熱くした BIBA。

ちょっと大人の雰囲気で背伸びした高校生が集まり、アバンチュールな気分に浸れた GB ラビッツ。

以前リマインダーに僕が寄稿したコラム『本物のユースカルチャーがここに。80年代「新宿・渋谷」のディスコシーン』でも詳細を書いたが、この4つのディスコの客は高校生が主体で、85年の風営法改訂をきっかけに、どの店も土日のオープンが12時からとなり1階エントランスのエレベーター前には高校生は群れをなし、ここからスゴイ熱気だった。

東亜会館の盛り上がりがピークだったのは『フットルース』のサントラが爆発的にヒットした84年からデッド・オア・アライブの人気に火が付いた86年ぐらいの約3年間。

ちなみにデッド・オア・アライブの「ユー・スピン・ミー・ラウンド」は、彼らが日本でほとんど無名だった頃から同じく歌舞伎町にあったディスコ、ニューヨーク・ニューヨークの DJ が地道にプレイし、これが六本木に飛び火した瞬間に大ブレイクした。85年の彼らの初来日パフォーマンスも同店で行われている。

閑話休題。話を東亜会館に戻そう。つまり、そんな短い期間、儚い青春をこの場所で謳歌した僕らがこの新宿 FACE に大集結したというわけだ。

フロアに足を踏み入れた瞬間、音の洪水の中、あの頃と変わらない熱気に僕は飲み込まれた。新宿FACE のキャパは600人となっているが、1000人ぐらいは入っているように感じたほどフロアはパンパンだ。

プリンス、マドンナ、クイーンといった往年のヒット曲から、サマンサ・ジルズ「ミュージック・イズ・マイ・シング」やロレイン・マッケインの「哀しみのメモリー(Let The Night Take The Blame)」といったディスコヒットが炸裂する。

当時も今も決してテレビやラジオでは知ることの出来なかった歌舞伎町独自のヒットナンバーが郷愁を誘う。フロアで過熱する当時のティーンエイジャーたちは、あの頃の振り付けを思い出してみたり、一列に並びステップを踏んだり、前の人の肩に手を乗せ輪になってステップを踏むサークルダンスに興じてみたり… 80年代の半ばの夏は今も続いていた。

この日集まった僕と同世代、東亜育ちの元ティーンエイジャーはみんな若い。そして足腰も丈夫だ(笑)。この日は15時オープンで23時までノンストップだったのだが、ほとんどの人が踊りっぱなしではなかったのだろうか。

今回のメインタイトルに “あの日に帰ろう” とついているが、まさにその言葉通りのスペシャルな一夜を過ごせたことは間違いない。ただひとつ違うことが、みんなその楽しさをリアルタイムにスマホで撮影。SNS にひっきりなしの投稿していた人も少なくないだろう。僕もそのひとりだった(笑)。

レンズ付きフィルム「写ルンです」が発売されたのが86年だから、当時は楽しかったその瞬間を写真に残すという習慣を持つ人はあまりいなかった。それでも、今回、会場の大きなスクリーンには当時のスナップが代わる代わる映し出されていく。懐かしさに目頭が熱くなる。

男のコは吉川晃司や玉置浩二のようなヘアスタイルにダボっとしたスーツ姿が多かったなぁ。

女のコで圧倒的に多いのがマリンルック!白いコットンのワンピースなんてのも流行っていた。

僕らより少し下の世代だとアメカジも取り入れ MA-1 を裏返しにしてオレンジ色に着るスタイルも女のコの間で流行したが、その頃は完全なアイドルスタイル。

あの頃のアイドルで言えば岡田有希子や、マニアックなところだと宇沙美ゆかりや渡辺桂子がディスコにいた女のコのイメージ。まだまだアイドルがファッションのお手本だった時代だ。

ディスコ=ボディコンというイメージを強く持つ人も多いだろうが、それは新宿のディスコ・カルチャーの衰退以降、80年代終わりぐらいからの話。そしてこれはジュリアナ東京の隆盛でピークを迎える。

当時を思い出してみると、ファッションからも分かるように、男の子はとにかく背伸びをしていた。女の子は自然体の可愛さをアピールしていた。そしていつの時代だって、男は女に振り回されている。

そんな東亜会館に尾崎豊の「ダンスホール」で描かれているようなむき出しの淋しさ、行き場のない反抗心の行方は微塵も感じられなかった。僕を含め、みんな普通の高校生だった。

そんな場所で、同じ時期に同じ場所で青春の得難い時間を過ごした僕らは五十代を迎えた。そして未だ東亜会館の熱狂が忘れられない。

16歳の夏の匂いを思い出しながら、踊りまくって時計の針が23時を指す少し前、ラストナンバーはやはり、84年の歌舞伎町最大のディスコヒット、ホット・ゴシップの「ブレイク・ミー( Break Me into Little Pieces)」だった。重厚でスペーシーなイントロから哀愁を帯びたヴォーカルに入るとあちこちで嬌声が響く。

あの頃のディスコヒットはどこか切なくて、それでいて高揚感があった。十代の僕らの青春のサウンドトラックにはぴったりだった。サビの部分の「♪ ブレイク・ミー・イントゥ・リトル・ピーセス~」の大合唱がフロアに響く。親に言い訳をして、授業中は睡魔と戦い、それでも通った東亜会館。35年前の夏の熱狂は今も続いていた。

僕らがもっと年を重ねて老いてきたら、「東亜会館」という名前の老人ホームを作って欲しい。そこには東亜会館で青春を過ごした人が集まって、月に1度はディスコヒットで踊るんだ。僕らは腰が立たなくなるまで踊り続けるだろう。そんな未来をちょっとだけ想像して、なんだか幸せな気分になれた。

忘れじの東亜会館ナイト。夏の終わりの儚い空の色のような素敵な夜だった。詩人、堀川正美さんの言葉を借りするとするなら

 子どもたちよ  明日がないと思うなら  夜になっても遊びつづけろ

といったところだろうか。 あの夏の刹那は永遠に続く。僕らはずっと遊び続けるのだ。

カタリベ: 本田隆

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