神々しいオーラを放つ一皿が、目の前にあった。
美しいサシが入った中トロだ。それも生まれて初めて食べる大間のマグロ。
「これが今日はたったの500円なの。この居酒屋、今日で創業10年なのよ。そのサービス企画。私についてきて良かったでしょう」と婦人は言った。
私の年齢を聞くと「あら、ほとんど孫じゃない。いやんなっちゃう」
品が良いその婦人は、おそらく80歳前後だろう。
婦人とは、その日の夕方に一人で訪れたもつ焼き屋で隣り合わせた。そのころ、ちょうど人生の過渡期で、現実逃避をしたい時期だった。ちょっとしたマリッジブルーというやつだ。
「つくね1本あげる。あなた、本当においしそうに食べるから」と向こうから話しかけてきた。彼女は、ほほ笑みながら私の食べる様子を見つめ、濃いハイボールのおかわりを繰り返していた。……この人、大トラだ。
もつ焼き屋を切り上げて帰ろうとした時だった。
「すぐ近くにもう一軒行きつけがあるの。あなた食べるの大好きでしょ、一緒に行こうよ」
有無を言わさぬ八十路のトラ力。
かくして、大間のマグロに出合うことができ、そのおいしさに震えた。
トラの言うことは聞くものだ。
杯を重ねるうち、婦人の問わず語りが始まった。旦那さんとは三十代で離婚、以来、仕事一筋で生きてきた。今は習い事と飲み歩きが楽しみな一人暮らし。 子供や孫がいるのかは、語られなかった。
「ね、もう一軒だけ。次はごちそうするから」「まだ飲むんですか!」
トラは飲めば飲むほど元気になった。なんとなくおいて帰ることができず、「じゃ一杯だけ」と言って小さなバーに入った。
相変わらずハイボールを片手に、「あなた家族は?」と婦人。
「まだ独身ですがもうすぐ結婚します」
「まあ! 相手はどんな人? いくつ?」矢継ぎ早に質問が来た。
戸惑いながらも、「お茶農家の息子で、温和な6歳年下の後輩です」と言うと、「わあ、やったじゃない! すごいよすごい、えらい!」と自分のことのように手をたたいて喜んだ。あんまり褒めるので、なんだか申し訳ないような、誇らしいような気持ちになった。
ふとその時、目の前の大トラと祖母の顔が重なった。
私はおばあちゃんっ子だった。怒るとものすごく怖いが、その何倍も「えらいえらい、ようやった、よっちゃん」と褒めてくれた。
遠方に住む、祖母の死に目には会えなかった。いとこから、いまわの際の祖母の病室から電話が来た。私の声を祖母に聞かせようという計らいだったが、会いには行けない距離がやるせなかった。
「おめでとう。乾杯しよう」というトラ。ふいに泣きそうになった。
そして二日酔いの翌朝。ポケットの中から箸袋が出てきた。帰り際に、連絡先を交換しましょうと私から言ったんだった。
小さく折り畳んだ箸袋を開くと、「祝! 結婚 えらい! 旦那さんとずっと仲良くね」とだけ書いてあった。名前も電話番号もなかった。
その後、婦人と最初に会ったもつ焼き屋に行ったが、もう会うことはなかった。いとこからメールが来た。「今年の盆は帰ってくる?」
その年は、祖母の十三回忌だった。トラになって結婚を祝いに来たのかと思ったらうれしくて切なくて、ちょっと笑ってしまった。
(エッセイスト・さくらいよしえ)