介護支援ビジネスを手がける株式会社リクシスの副社長で、介護支援メディア『KAIGO LAB』編集長・酒井穣氏に、介護離職のリスクを伺った前回。
質の高い介護のために必要なのは、「家族の愛」よりもプロの力。家族はプレイングマネジャーになってはいけない、というお話を伺いました。そして、酒井氏は介護が“当たり前”になる社会を目前にしたいま「私たち一人ひとりのエイジング・リテラシーをあげる必要がある」と指摘します。
―「エイジング・リテラシー」という言葉は初めて聞きました。
そうかもしれません。しかし日本は大介護時代に突入していますから、これから、エイジング・リテラシーという言葉は、当たり前のものになるでしょう。
この仕事をする中で、人が老いて、死んでいくという生物として当たり前のプロセスについて、あまりにも情報が行き渡っていないと感じています。日本全体のエイジング・リテラシーが低いということです。ただ、それは仕方がないことなんです。
―どうしてですか?
よく、育児と介護はひとくくりに語られます。確かに類似性はあるのですが、決定的に違うのは、育児については「私たち自身が子供のころに育てられた」というユーザー体験があります。
ユーザー体験があるので、自分が育児をする番になれば、自分なりに教育の理想を掲げ、教育の品質を測定することができます。そして多くの親が、自分が受けた教育よりも高い品質の教育を子供に届けていきます。
そのため、子育ての環境や教育倫理については、時間の経過によって自然と改善されていき、子育てリテラシー、教育リテラシーはどんどんアップデートされていくのです。
―確かに子育てや教育の常識はどんどん変化しますね。
一方、介護の品質は今、介護を受けている人の中で測定されていきます。しかし、そうしたユーザー体験を持った人たちは、亡くなってしまうので、次の介護を担うことはありません。そうした貴重なユーザー体験は、放っておくとまったく積み上がらないのが介護なんです。
だから、エイジング・リテラシーというのは意識的に高めないとならないのです。それを放っておけば、前時代的な介護が、いつまでも提供されてしまいます。
私たちに必要なのは、エイジング・リテラシーは、意識的に学習しない限り、全く成長しないという認識です。「10代はどう過ごすべきか」については、誰もが意見を持っているでしょう。しかし「70代はどう過ごすべきか」について語るには、学習が必要です。
老いとはどういうことなのか? あるべき介護とはどうものなのか? 私たちは、できるかぎり科学的なエビデンスのある情報を、積極的に仕入れていくしかないんです。
―それは、介護が必要になる前からですか?
介護は突然やってきます。まったく無知の状態で、なにがなんだかわからないままに間違った選択をしてしまうことはよくあることです。介護離職もその一つですし、焦ってググるのは最悪です。
幸い、日本には素晴らしい「エイジング・リテラシーの入り口」があります。介護がまだ身近ではない方、始まったばかりの方は、漫画『ヘルプマン!』(くさか里樹/講談社)を読むことをおすすめします。介護業界では研修のテキストに使われることもある作品で、エイジング・リテラシーを高めるためにも最適です。
―気にはなりつつ「まだ先」と思っている人がほとんどです。
車椅子や寝たきりが要介護状態だと思っている人は多いと思います。しかし、重症化を防ぐ予防の段階で、生活支援をするのも立派な介護なんです。
高齢者の身体状態には、この一線を超えると一つ前の状態に戻れないというラインがいっぱいあります。だからこそ、そうしたラインの手前手前で適切なケアをすれば、自立した生活を長く続けることができるのです。
自宅で転ぶようになったらすぐにでもプロに相談したほうがいいし、信号が青のうちに渡りきれなくなったら、もはや要介護だと思ったほうがいいです。
判断を先延ばしにすると、介護は必ずひどいことになります。ちょっと危ないかなと思ったら、いろいろな人に相談しないと手遅れになります。
―何をどんな準備をしたらいいのでしょうか?
だからこそ、リクシスの「LCAT」という仕事と介護の両立支援システム(SaaS)を使ってもらえたら良いのですが(笑)。
このシステムは、介護が始まる前に必要となるエイジング・リテラシーを、それぞれの個人の状況に合わせて提供するものです。システムが会社で導入されている場合は、このシステムで介護の準備は完結します。
とにかく介護の準備で大事な要素になるのは「介護のリソース」「介護する人への理解」「介護についての知識」の3本です。システムに頼るにせよ、頼らないにせよ、これら3本を積み上げていくことが大事だと思います。
―「介護のリソース」とは介護を担う人のことですよね?
そうです。ヒト・モノ・カネ・情報という通り、他にも重要な点がありますが、まずはヒトです。
例えば、将来、親の介護をすることになるのは自分一人なのか、それとも兄弟姉妹や親類縁者なのかで、必要となる準備は全然変わります。ただ、介護をきっかけに兄弟仲が最悪になることも珍しくありません。本来なら、主たる介護者が決まったら、周囲はその人をどう支援していくべきかを考えるべきなのですが、こうした常識も残念ながらまだ浸透していません。よくあるのは、兄弟姉妹の中でも、親の近くに住んでいる人が、介護を押し付けられるという話です。
また、介護が始まる前から、介護のプロとつながっておくことも重要です。いざという時に、判断を助けてもらえるからです。さらに行政サービスについても使えるものはすべて使い倒すという心構えも大事でしょう。しかし、日本の社会福祉は基本的に申請主義なので、具体的にどのような介護サービスがあるのかについての知識も必要になります。
―では、「親への理解」とは?
僕がセミナーで、よく「みなさんはお母さんの元カレ、お父さんの元カノを知ってますか?」と問いかけます。「両親のことをよくわかっている」と言っていた人も、この質問にはほとんどの人が黙ってしまいます。
「お父さん」「お母さん」というのは「部長」「課長」と同じ役職名に過ぎません。親には、ちゃんと個人の名前のついた人生があります。あなたが知っている「お父さん」「お母さん」が、すべてではないんです。むしろ、親は子供の前ではカッコをつけていることの方が多いくらいです。
特に親が認知症になってしまった場合、親のことを理解していないと、優れた介護をすることができなくなります。認知症は、親に介護が必要になるきっかけとして第一位の原因です。親の人生についての細やかな情報が必要になるんです。
―情報と知識……事前準備が大事ですね。
僕は二十歳のときから、母親の介護をしてきました。現在の母親は要介護5で施設にいます。しかしもし私が、今の知識と人脈を持って27年前のあの日に戻れたら、母親はいま、孫を抱くこともできていたと思います。
僕自身の経験を振り返ってみて明らかなのは、過去の自分の選択はひどく間違っていたということです。こんな後悔は絶対にしないほうがいい。だからこそ皆さんには、知識を集めて、自分より詳しい人に相談をし、少しでもいい判断をしてもらいたいと思っています。
少しだけでいいから、準備を進めていってほしい。問題の原因は必ず過去にあります。そして未来は、今の自分の決断が作るものなのです。せめて先送りだけでも、やめてもらいたいのです。
酒井穣(さかいじょう)
株式会社リクシス取締役副社長 CSO、介護メディア『KAIGO LAB』編集長・主筆、新潟薬科大学生命産業創造学科客員教授。
1972年、東京生まれ。慶應義塾大学理工学部卒。Tilburg大学経営学修士号(MBA)首席取得。商社にて新規事業開発に従事後、オランダの精密機器メーカーに光学系エンジニアとして転職し、オランダに約9年在住する。帰国後、フリービット株式会社(東証一部)の取締役(人事・長期戦略担当)を経て、2016年に株式会社リクシスを創業。著書はベストセラーとなった『はじめての課長の教科書』や『ビジネスパーソンが介護離職をしてはいけないこれだけの理由』(いずれもディスカヴァー・トゥエンティワン)など多数。