
私が生まれ育った武蔵野には、あちこちに白いペンキの米軍住宅があった。
それは家というよりも「ハウス」と呼ぶのがふさわしい。
小さい頃、ハウスを見かけるたびに「あっちに行きたいなあ」と思った。
白い垣根の向こうには、青々と光る芝生。ブランコやトランポリンが無造作に置かれ、休日にはバーベキューの煙がうまそうな匂いとともにたなびいていた。
「あっちがいい!」と言うと、「あっちはダメ!」と父にとがめられた。
「あっち」とは、どんなところなの? ずっと不思議でならなかった。
私の暮らす「こっち」から覗き見ることしかできない「あっち」。
そこが、米軍基地内で、戦後に建てられた米軍家族住宅、すなわち「ハウス」だったことは、ずっと後になってから知るのだった。
戦後、日本には40万人くらいの米軍が進駐した。
1950年に入ると朝鮮戦争も始まり、米軍の家族用住宅が北海道から沖縄(当時は米国統治下)まで急ピッチで建てられていった。それが「ハウス」の発祥だ。
ハウスの正式名称は「ディペンデントハウス」。
ディペンデントとはインディペンデントの対義語で依存・扶養という意味。
つまり扶養家族住宅。アメリカ人にとっては西部開拓時代から馴染みのある言葉だそうだ。
1945年8月、ダグラス・マッカーサーはコーンパイプを咥えて厚木飛行場に降り立った。マッカーサー率いるGHQは、日本の民主化を進めながら同時にものすごい早さで日本を米国化しようとしていた。
ここで想像してほしい、空襲で焼け野原になった東京の姿を。
当時、米軍家族が撮影した写真には、国会議事堂を背に瓦礫の山に立ち、テンガロンハットに2丁拳銃を構えスマイルを浮かべた小さな男の子の姿があったりする。
市川崑さんが監督した1954年の映画『億万長者』では、国会議事堂の脇にかまぼこ屋根の軒並みが映っている。
これは、現在の国立劇場と最高裁のあたりにあった米兵宿舎パレスハイツだと言われる。調べると、ゲートの看板がやけにアメリカンでかっこいい写真も残っている。
米国人以外立ち入り禁止のエリアだが、日本人はメイドさんをはじめ、いろんな人が職を求めて押し寄せたらしい。米兵のいるところでは、お金儲けができたというのであろうか。基地周辺での商売はかなり儲かったとも聞く。
焦土と化し敗戦占領という憂き目に遭った日本で、生きる糧もなかった頃。豊かでノリ良く明るい米兵相手に、自ら恋愛や結婚願望を抱く健気な女性たちの存在もあった。
そんな様子を風刺した漫画、「ベビさん(BABY SAN)」も米兵には大変人気だったようだ。
小柄で肉感的、いわゆるトランジスターグラマーで、素足に下駄を履いたベビさんは実に愛らしくて「誰か映画化しないかしら」と思うほど。
米国の都合の良いイメージで描かれてはいるが、当時を思えば実に逞しく健気な彼女たちの姿が私には想像できる。

パレスハイツ以外にも、リンカーンセンター(現国会議事堂前)、ジェファーソンハイツ(現永田町の衆参議長公邸界隈)、ワシントンハイツ(現代々木公園からNHK、国立代々木競技場界隈)という800戸以上の巨大ハイツ群(学校、教会など諸施設も含む)やグラントハイツ(成増飛行場跡地、現光が丘あたり)などがあった。
皇居や明治神宮の近くにこれだけの米軍住宅があったなんて信じられないが、戦争に負けるとはそういうことなのだろう。
1964年の東京オリンピックに向けてワシントンハイツは返還され、選手村になった。当時のハウスは、代々木公園内に1戸だけ現存している。
ワシントンハイツができて周辺も様変わりした。
日本人がまだ十分な衣食を得られなかった頃に、アメリカ人家族のためにクリーニング屋の白洋舎や、スーパーマーケットの紀伊国屋などもできた。
ワシントンハイツには広い野球場も幾つかあったらしい。そこで日本の少年を集めジャニーズ少年野球団を率いていたのが、ここの住人だったジャニー喜多川氏だ。
そのワシントンハイツの野球団から誕生したのが少年アイドル「ジャニーズ」である。
また、表参道に私の誕生と同じく1965年3月には、原宿のコープオリンピアが竣工。地下には、当時としては珍しい大型コインランドリーがあった。
玩具のキディランドやオリエンタルバザーは、米軍人家族相手の書籍雑貨や骨董土産物屋として50年代にオープンしていた。

やがて、ワシントンハイツは調布飛行場界隈の「関東村」と呼ばれる在米軍施設に移設される。
吉永小百合さん主演の映画『父と娘の歌』(65年日活・斎藤武市監督)にも、ちらっとゲートが映っている。
関東村は、1965年から1973年まであったという。私が小さい頃に見た白いペンキの垣根のハウスはそれだったのだ。
遠くのハウスを眺めながら少女時代を過ごした私。
「あっち」から流れくる米軍放送(FEN)を聞いて育ち、一度だってハウスに入ったことはなかったが、なんと今年初めてハウスに入った。
横田基地を「あっち」に見て、16号線の「こっち」側にある福生アメリカンハウス。ここは、現存するハウスを一般公開しているコミュニティースペースだ。土曜の夕暮れどき。どしゃぶりの雨に見舞われ、雨宿りをさせていただいた。
ハウスの中には、当時の米軍人家族の暮らしを思わせるアメリカンな家具や雑貨が並べられ、家具調のステレオもあった。
「この空間でレコードを聞けたらどんなに素敵かしら」と、ハウスのボランティアの方と話をしていたら、1枚のレコードを出してきてくれた。大瀧詠一さんの『ナイアガラ・フォールスターズ』だった。
シリア・ポールさんが歌う「夢で逢えたら」という曲が流れてきて、その透明感のある艶やかな歌声に、本当に夢見心地になる。
彼女の歌声が木の床や壁を伝わってハウス全体に響き渡り、大瀧さんの音楽が古いハウスという空間を伝って私の心を包み込む。

大瀧さんは生前ずっとハウスに暮らしていたと聞いた。
大瀧さんがハウスにこだわった思い。私は生まれて初めて大瀧さんの音楽とハウスという環境で向き合ってみて、ある共感を抱く。
それは、ハウスの白い垣根を眺めて育った私と同じ環境だったのでは、と。
ハウスに魅了されたアーティストそれぞれの思い。
米軍ハウスで暮らしたアーティストは少なくない。
村上龍さん、忌野清志郎さん、小坂忠さん、細野晴臣さんといった名前は聞いていた。
映画監督の原口智生さんも、1980年代に造形作家の先輩と福生のハウスに工房を構えていた。家賃が安く間取りの広いハウス。都会の喧騒から離れ、創作に専念したい彼らにとっては、アートビレッジのような存在にもなっていった。
横田基地のある福生や瑞穂町以外にも、かつてジョンソン基地(現在の航空自衛隊入間基地)があった狭山や入間にもハウスはあった。
入間にあったハウスを活用したニュータウンが「ジョンソンタウン」だ。
アメリカンなカフェやブティックなどが立ち並び、若者たちで賑わっている。
新しい店舗の間には、当時のハウスがまばらに残っていたりする。ミュージシャンの西岡恭蔵さんが1970年代に暮らしていたハウスも残っていた。
ロケに使えそうなまっすぐ伸びた舗道を眺めていると、「オリンピック選手村を題材にしたロケで使われたよ」とブティックのお兄さんが教えてくれた。
確かに、ハウスに付き物の小径に比べたら広い舗道だが、その風情は、ワシントンハイツの面影がなくもない。

それにしても、なぜ私はこんなにもハウスに魅了されるのだろう。
戦後の日本と米軍の蜜月に妖しい魅力を感じるのか。まさか。それとも、敗戦国日本がアメリカ文化に憧れ続けた心の原風景に興味があるからなのか。
行ってはいけないと父からとがめられた未知なる「あっち」への憧れなのだろうか。
スクラップビルドを繰り返すアメリカ的な大量消費社会に影響された現代の東京にハウスを探すのは難しい。これも当時のGHQの計算だったのだろうか。
私のハウスへの冒険はまだまだ続くのであった。(女優・洞口依子)