「御真影」が復活したのか 表現の不自由展が示したこと

By 佐々木央

「表現の不自由展・その後」の再開に抗議の座り込みをする河村たかし市長

 やはりこちらが“本丸”だったのか。

 あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」(以下「不自由展」)が再開された日、河村たかし名古屋市長の抗議映像が、本サイト「47ニュース」に掲載された。掲げるプラカードに「日本国民に問う! 陛下への侮辱を許すのか!」とあった。

 ■ターゲットの変遷

 河村市長はもともと、元従軍慰安婦をモチーフとする「平和の少女像」を問題視していた。8月2日に不自由展を視察した後、少女像について「どう考えても日本人の心を踏みにじるもの」と述べ、不自由展の中止を要求した。

 1週間後の8月9日、市長は市のホームページに、不自由展に抗議した経緯を説明する文章を載せ、「問題と思われた主たる展示物」の(1)として「平和の少女像」を名指しした。(2)は「焼かれるべき絵」と「遠近を抱えて」。

 ちなみに(2)の「焼かれるべき絵」は「昭和天皇と推察される写真の顔の部分が切り取られ一部が焼かれているように見える作品」とし、「遠近を抱えて」は「昭和天皇の写真が炎に包まれているような場面を含む映像作品」と述べる。断定を避け「炎に包まれているような」と慎重な表現を選んでいる。

 ところが、9月20日にトリエンナーレ実行委員会会長である大村秀章愛知県知事あてに出した公開質問状では、【問1】として真っ先に「遠近を抱えて」を取り上げた。作品説明も「昭和天皇の肖像写真を、意図的にバーナーで燃やした上で、その灰を靴で踏みつける動画作品」と、表現をエスカレートさせた。「少女像」は【問2】に後退している。

 最初から天皇モチーフの作品こそが問題だと捉えながら、何らかの理由でまず「少女像」にフォーカスしたのか。あるいは後になって、天皇作品の方がより悪質だと悟ったのか。または政治家の嗅覚が、その方がより市民の共感を集めると踏んだのか。内心は測りがたいが、中心的な攻撃対象は「遠近を抱えて」にシフトした。

「表現の不自由展・その後」の最後の入場者抽選発表に集まった人たち

 ■「陛下への侮辱」なのか

 ここでプラカードの「陛下への侮辱」という言葉に立ち止まりたい。

 皇室典範第23条は、天皇・皇后・皇太后・太皇太后の敬称を「陛下」と定める。さらに、退位特例法により上皇・上皇后も「陛下」である。そうするとプラカードの「陛下への侮辱」とは、現在の「天皇・皇后・上皇・上皇后」のいずれかへの侮辱ということになるが、映像作品に写し出されたコラージュの肖像は「昭和天皇」であった。

 マスメディアの用語も、死去後の天皇は「○○天皇」であり、「○○天皇陛下」とは呼ばない。つまり、このプラカードの「陛下」は法制上、妥当ではないし、メディアの用語とも異なる。「陛下への侮辱」という表現は、現存する別人と混同される恐れさえある。

 それでも「陛下」としたのはなぜだろうか。そして、それが間違っているという声も、私が知る限り、上がらなかったようである。それはなぜか。

 もし、物故した天皇をも「陛下」という尊称で遇することに違和感がないとすれば、私たちは知らず知らず「万世一系の天皇」という思想に染まってしまっているのかもしれない。血統そのものに価値があるという「血のカリスマ」の思想に。

 社会がそうであるなら「昭和天皇(個人)への侮辱」を呼号するより、「(天皇制そのものを意味する)陛下への侮辱」という方が、非難の強度が上がる。抗議する人たちが意識したかどうかは分からないが、実に適切な用語選択だったというべきか。

河村市長のバックに「天皇御真影」の文字が見える

 動画の後半、河村市長が立って演説している場面では、市長の背後に「天皇御真影を燃やすな」というプラカードが見える。「御真影」という言葉で、長野県松本市の手塚英男さん(80)の文章を思いだした。

 ■子どもの命より写真と紙

 手塚さんは松本市の社会教育の現場に長くいて、中央図書館長などを務めた。退職後「東々寓(とんとんぐう)だより」という個人通信を出している。その中の8本を抜き出し、この夏、冊子「奉安殿(ほうあんでん)という呪縛」にまとめた。本文冒頭を引用する。

 ―奉安殿をご存知ですか。(中略)奉安殿には、「御真影」と呼ばれる天皇皇后の写真と「教育勅語」の謄本が収められていました。天皇から下賜された(下し賜った)御真影は現人神の天皇そのもの、白手袋をはめた校長が講堂の壇上でうやうやしく奉読する教育勅語は、天皇の「お言葉」そのもの。

 それらを祭った耐火式の神社風建物が奉安殿です。学校の正面玄関脇の一番良い場所に建てられ、登下校する生徒はかならず脱帽し深々と頭を垂れて、「早く日本が戦争に勝ちますよう、天皇陛下の御ために戦います」などと拝むのでした―

 手塚さんは1943年9月に文部省が発出した「学校防空指針」を紹介する。そこに示された自衛防空の主眼は「(1)御真影、勅語謄本、証書謄本ノ奉護(2)学生生徒及児童ノ保護(3)貴重ナル文献…」の順であり、子どもの命より、写真や紙を優先している。

 御真影がいかに神聖だったか。明治期のことだが、信州の上田尋常高等小学校で御真影が失火で焼けたとき、校長が割腹自殺。これが美談として報じられた。焼失しても生きのびた校長には厳しい非難が浴びせられた。命よりも一葉の写真が重かったのだ。

 手塚さんは1945年春、松本市の開智国民学校に入学、その夏に終戦を迎えた。「東々寓だより」では資料を渉猟して、開智が実践した皇国民教育の実態に迫る。先に引用した冒頭の文章のあと、次のように述べている。

 ―この奉安殿(御真影と教育勅語)こそ、生徒の心を天皇への忠誠と戦争への熱狂へとマインドコントロールした仕掛けです。戦争が終わって奉安殿は破却され、教育勅語は失効したはずですが、70年後の今日、象徴天皇を「万世一系の元首」にしたり、教育勅語の精神を復活して愛国心など道徳教育を進めようとする主張が力を得ています。唱えているのは戦後世代の政治家などです。奉安殿はいまだに遺伝子のように彼らの精神に受け継がれ彼らを呪縛し続けているといえましょう―

 手塚さんは「戦後世代の政治家など」に奉安殿の呪縛を見る。だが私たちが、死去後の天皇の写真に特別な価値を認め、その毀損を侮辱と感じるなら、「御真影」は既に私たちの心のうちにある。そこから「不敬罪」へは、そう遠い道のりではないだろう。
(47NEWS編集部、共同通信編集委員佐々木央)

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