貿易の“窓口”長崎で感染症流行 シーボルト門人ら活躍の軌跡 来月10日まで特別展開催

長崎から全国に普及した種痘の歴史を伝える特別展=長崎市、シーボルト記念館

 かつて多くの人に恐れられた天然痘を防ぐため、長崎で国内初となる予防接種「種痘」が成功して、ことしで170年。長崎市鳴滝2丁目のシーボルト記念館で開催中の特別展「病をふせぐ-シーボルトと種痘-」は、日本の種痘普及に貢献したシーボルトの門人らの活躍を伝えている。

 天然痘(痘瘡(とうそう))は、痘瘡ウイルスの空気感染によって起こり、高熱や発疹などが出て、治っても痘痕(あばた)が残る。乳幼児の死亡率が高く、古くから恐れられていた。
 鎖国により海外貿易の主な窓口だった長崎では、さまざまな感染症が流行。天然痘は1662年に大流行し、幼い子どもら2千人以上が死亡した。そのとき建てられた供養塔「一の瀬無縁塔」(本河内2丁目)は、市の有形文化財に指定されている。
 1796年、一度かかれば二度とかからないことを利用し、ワクチン接種で予防する牛痘法(種痘)がイギリスのジェンナーにより開発された。天然痘に感染した牛から採取したワクチンは、感染した患者から作る従来の人痘法よりも安全、確実な方法として瞬く間に広がった。
 日本では出島のオランダ商館が種痘を普及させようと積極的に取り組みを始めた。1823年、来日したシーボルトが出島で実験。しかし、遠くインドネシア・バタビアから取り寄せたワクチンは効力が弱く、失敗が続いた。同記念館の織田毅館長は「シーボルトらにより技術は伝わっても、鎖国状態の日本には有効なワクチンがなかなか入ってこなかった」と話す。
 それ以来、日本での種痘普及に尽力したのは、長崎でシーボルトに学んだ門人たちだった。長崎の蘭方医・楢林宗建(1802~52年)は、佐賀藩医となって藩主鍋島直正の命を受けると、ワクチンの輸入に取り組んだ。
 48年に取り寄せたワクチンは日持ちせず失敗。そこで翌年、宗建は天然痘患者のかさぶたを使う人痘法をヒントに、種痘をした人にできるかさぶたをバタビアから輸入した。それを基にワクチンを作り、出島で自身の子どもらに接種したところ、見事成功。このワクチンはその後江戸などに送られ、多くの命を救った。
 著名な蘭方医の吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)の親戚、吉雄幸載(こうさい)は、早くから種痘に興味を抱き、シーボルトの前任の商館医が実施した種痘にも立ち会った。その後シーボルトに師事し、大きな協力者になった。幸載の息子はシーボルトから種痘を受けているという。
 幸載の次男で出島出入医師になった圭斎(けいさい)は、商館医モーニッケから種痘を学んだ。52年、柴田方庵とともに市民に無料で実施することを計画。奉行所に通達してもらうよう願い出て、許可されると、圭斎と柴田のそれぞれの家で施術を始め、長崎での種痘普及に貢献した。
 世界保健機関(WHO)は1980年、天然痘の絶滅宣言を出している。
 同展では長崎の医師たちが残した書物や道具(複製)など60点を展示。シーボルトの門人ネットワークを軸にして長崎から全国に広まった種痘の歴史を伝えている。長年所在の分からなかった吉雄幸載とその長男の肖像画は、子孫方に伝わっていたことが今回確認され、展示の目玉として公開している。
 織田館長は「種痘が普及したことで、西洋医学の地位が高まり、明治以降の本格的な導入にもつながった。シーボルトとその門人が恐るべき流行病に立ち向かった軌跡を見て、長崎の人たちがどのように活躍したのかを感じてほしい」と話している。

 展示は11月10日まで(祝日以外の毎週月曜休館)。一般100円(小中学生50円)。

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