
スポーツの秋。文化の秋。
閉幕したラグビーのワールドカップ。大会中は、迫力のある試合と日本代表の躍進に熱くなる日本人の姿があった。
私はふと思い立って千駄ケ谷のラーメン屋「ホープ軒」に行った。ラグビーのワールドカップが開催されるはずだった新国立競技場が、ここの2階から展望できると言われたからだ。
実際に近くで見る新国立競技場は、決定するまでの狂想曲が嘘のように味気ない建物だった。隈研吾という人のデザインが私にはピンと来ないだけなのかもしれない。
それにしても、17歳のときから一度も立ち寄ることのなかったホープ軒に、まさか54歳の自分が訪れるとは。これもラグビーの影響かと思うと感慨もひとしおだ。

もともと私はラグビー観戦が好きだった。
そのきっかけを作ったのは、神宮前にあった喫茶店「プラムクリーク」のマスター・櫻井恒雄さんだ。
私もお世話なっているスタイリストの中山寛子さんのご主人で、集英社を退社してこの店を始めた。
彼は、昭和アイドル全盛期の月刊誌「明星」の編集者で、知る人ぞ知る〝名物アニキ〟だったそうだ。
私がまだ高校生でこのプラムクリークでアルバイトをするようになったのは1980年。
ちょうどその頃、ラグビーが盛り上がってきていた。
新日鉄釜石の応援席には大漁旗が翻っていた時代。店のテレビの前には近所の人や明星の編集者も集結して、みんなで秩父宮や国立競技場へも出かけ観戦したものだ。
当時、原宿の竹下通りにはラガーシャツを売るラグビー用品店があった。マスターの櫻井さんはそこでみんなのためにラガーシャツを見立てて買ってくれたりもした。
ラグビー観戦はそれほど真剣だったのだ。なんとも懐かしい原宿の光景がラグビー観戦の思い出とともによみがえる。

プラムクリークでバイトする前、私が中学3年の頃の渋谷、原宿界隈も懐かしい。
時は1979年。
バグルスの「ラジオ・スターの悲劇」やザ・ナックの「マイ・シャローナ」などの洋楽が街のあちこちに流れていた。
SONYのウォークマンはまだ出たてで高嶺の花。私はもっぱらラジオでヒットチャートをエアチェックしてカセットテープにダビングしてお気に入りテープを作っていた。
今でこそ、歩きながらお気に入りの音楽を聴くのは当たり前だが、ウォークマンの登場は本当にカルチャーショックだった。
人気絶頂だった西城秀樹さんが、ローラスケートを履きウォークマンをしている「月刊明星」のグラビアが鮮烈だった。まさにアメリカンなショット。

思えば当時、和製アメリカンなモノが街の看板や装いにもあふれていた気がする。原田治のイラストの女の子が可愛い雑誌「ギャルズライフ」(主婦の友社)は、あのイラストのマスコット欲しさに買うほどだった。

戦後、進駐軍が落としていったアメリカ文化を日本人がカスタマイズした和製アメリカン。
たとえば1970年代後半にはやったファッションを世に広めた雑誌「ポパイ」の存在とともに代表的なのが、アメリカンな雰囲気で注目された「BEAMS」。
そんなBEAMSが切り開いた文化を「週刊文春」が取り上げてコラボしている。
発売中のその雑誌に私もエッセイを寄せているが、アメリカンな暮らしに憧れていた少女時代。新しい過去と懐かしい未来。79年あたりの渋谷、原宿の流行の変化に刺激を受けた世代だった。
日本の中にあるアメリカンを探していたある日、私にアメリカンスクールの友だちができた。
彼女たちと渋谷に繰り出すことになった私は服選びに悩んだ。
当時私の格好は母が作る服ばかりで、ティーンの流行から外れていた。はっきり言って15歳の女子にとってそれらは思い切りダサかった。
ダサダサでは渋谷を歩けまいと、母にねだって当時立川にあった第一デパートの夏物バーゲンで渋谷行きの「オサレ服」をそろえた。
曖昧なブランドのペインターパンツ、水色にオレンジのパイピングを施したパイル地でできたサーファー風のTシャツ。足元は、学校指定だから買ってもらえたようなパンサーという名のスニーカー(世界長ユニオン)。カバンは、父親のタンスの奥から引っ張り出したJALのエアラインバッグ。ちょっとカビ臭かったけど、それを肩から下げた私は、思い切りアメリカンを意識したつもりでいた。

程なく、待ち合わせ場所のハチ公前にやってきた彼女たちの装いを見て驚いた。
栗色のロングヘアをなびかせ耳には新発売の噂のウォークマン。コットンヤーンで編んだホルターネックのタンクトップ。
夏は終わり、秋色に色づく街。
白いコーデュロイのパンツに足元は素足にサボ。腰にあるウォークマンのオレンジボタンがキュートだった。
隣の女の子の金髪ブロンドのボブヘアにもヘッドホンはあった。
一台のウォークマンを仲良くシェアしていたナウな彼女たちにびっくり。
淡いすみれ色のインド更紗のブラウスにビッグスミスのオーバーオール。足元は、ヒッピーが履くような編み込みサンダルで、今思えばあれが初めて見たメキシコのレザーワラチだった。
しかも驚いたことに、二人とも小さな乳房を隠す事なくノーブラだったのだ。
私はポカンと口が半開きのまま、早口の英語でペラペラまくしたてながら歩く彼女たちに連れられドギマギ。外国人の友だちと肩を並べ渋谷を歩いたのもその日が初めてで、それだけで忘れられない。
できたての「109」を横目に道玄坂を上がり、月賦の緑屋を曲がると「レイン&スプーナー」のボタンダウンシャツの兄さんたち、アメカジスタイルの輩とすれ違った。
その先には、サンズという響きがなんともアメリカンな「MIURA&SONS」という名のアメトラな服屋やジーンズショップがあったりしたからだろうか。
ぺらぺらとよく喋り、東急ハンズでビーズを買ったり。まるでアメリカの川で遊ぶカワウソのようにするすると自由自在なノーブラの彼女たち。
何もかもが初めてで夢見心地のまま、気づいたら渋谷消防署の辺りまで歩いていた。
古着屋のHELLOや赤富士、文化屋雑貨店が並ぶ道の途中に、「BEAMS」という名の本当にちっちゃな店があった。ポロシャツやボタンダウンシャツを着たメンズがすれ違い様、ノーブラの彼女たちをチラ見する。
BEAMSの上には、確か「MELS」というアメリカンなカフェがあって、そこで私は陽気なアメリカンガール二人に挟まれてケタケタ笑いながらソーダを飲んだ。
劣等感を恥じるダサい自分。
いつしか彼女たちと身振り手振り笑って話す時間の中でそんなダサい自分を笑い飛ばし、ただただ彼女たちと渋谷の街を楽しんだ。
1979年の夏の終わり。
これが私の「てぃーんずぶるーす」だった。(女優・洞口 依子)