韓国釜山市射撃場火災10年 唯一の生存者・笠原勝さん 長崎で講演 避難の記憶や思い語る

火災から10年を前に、思いを語る笠原さん=長崎市内

 日本人観光客を含む15人が犠牲となった韓国釜山(プサン)市の室内射撃場火災から14日で10年。事故に巻き込まれた雲仙市吾妻町の同級生グループ9人のうち、重傷を負いながらも唯一、一命を取り留めた同町の農業、笠原勝さん(47)が12日、長崎市内で報道機関向けに講演し、避難の記憶や10年の思いを語った。
 「意識がとびとびで、夢か現実か分からないような感覚だった」。火災でやけどを負い死線をさまよった笠原さんは、あの日のことをこう振り返る。2009年11月14日、同級生との釜山旅行で訪れたガナダラ実弾射撃場。体験を終えて椅子で友人を待っていた時に「突然バックドラフトが起こりバーンと爆発した」。
 地震のように大きく床が揺れ、体が転倒。慌てて出入り口の方へと急いだ。「意識がもうろうとして、逃げた時の記憶はほとんどない」。かすかに近くの店の人が水を掛けてくれたことは覚えているが、気が付くと市内の病院にいた。
 全身の半分をやけど。意識が戻った後は皮膚移植の手術を繰り返した。同じ病院にはグループの数人も搬送された。「最初のころは同級生家族が病室に見舞いに来てくれていたが、だんだんと訪れなくなってきた」。12月8日。妻に仲間の安否を尋ねたところ、全員亡くなったと知らされた。がくぜんとした。「言葉も涙も出なかった。これは絶対うそだ、と」
 12月に帰国後、入退院を繰り返した。やけどで両手の機能が落ちて動かせず「最初は物もつかめない状態だった」。1年にもおよんだ過酷なリハビリ。「自分だけの事故であればきっと、しょげていた。でも、亡くなった同級生から『それくらいでなんしよっと』という声が聞こえた。だからこそ頑張らなきゃと思えた」
 地元の人から「あなただけでも生きていて、良かった」と言われるのはすごくつらかった。一度に失った大切な仲間。「現実にはいないと分かっているのにまた帰ってくるのではないかと思う」と今の心境を吐露した。
 「旅行に行ったことには後悔はない。ただ『どうして僕たちが』という思いが今も残る」。つらい経験を乗り越える原動力は亡き友人と周囲の支えだった。自宅には、地元吾妻の人たちからもらった千羽鶴を大切にかざっている。「鶴のおかげで10年間頑張ってこれた。もう一度、前に進むためにも千羽鶴をしまおうかなと思う」。亡き友人らの分まで-。そんな思いを新たにしている。

 ■釜山室内射撃場火災

 韓国釜山市のガナダラ実弾射撃場で2009年11月14日に発生。日本人観光客10人と韓国人従業員やガイドら5人が死亡し、日本人1人が重傷を負った。釜山市は特別条例を制定し、被害者遺族らに補償金を支払った。釜山地裁は、射撃直後に飛んだ火花や流れ弾が残留火薬に引火し、一気に燃え広がったとする捜査当局の鑑定結果を認定。業務上過失致死傷罪などに問われた射撃場経営者と管理人に禁錮3年の判決を言い渡した。

© 株式会社長崎新聞社