「娘は3度殺された」 教訓を忘れるな―遺族の訴え 桶川ストーカー殺人20年(上)

猪野詩織さんの写真などがある部屋で、思いを語る父憲一さんと母京子さん=2019年8月、埼玉県上尾市

 埼玉県桶川市で1999年、大学生の猪野詩織さん=当時(21)=がストーカー被害の末に殺害された「桶川ストーカー殺人事件」から今年で20年。ストーカーという言葉が広まり、法整備のきっかけにもなった事件を振り返るとき、遺族は「娘は3度殺された」と強調する。犯人だけでなく、2度目は警察に、3度目はマスコミに―。(共同通信=沢田和樹、全3回)

 ▽脅迫、中傷

 自宅の居間にある祭壇には、今も詩織さんの遺骨が置かれている。「亡くなったのを信じたくなくて。無念な死に方をし、1人でほっぽり出す気にはなれないんです」。そう話すのは、詩織さんの父、憲一さん(69)だ。遺骨を囲むように飾られるのは、詩織さんの笑顔の写真、大好きだったひまわりの花、キティちゃんの縫いぐるみ。憲一さんと妻の京子さん(69)は毎晩、ここで布団を並べて眠る。京子さんは「靴も洋服も、詩織の物は何一つ捨てられない」と語る。2階の詩織さんの部屋は、ほとんど事件当時のままだ。

 事件が起きたのは99年10月26日。詩織さんは通学中、桶川市のJR桶川駅前で待ち伏せしていた男に刺殺された。約2カ月後、殺人容疑で逮捕されたのは計4人の男たち。実行犯らに指示をしていた首謀者の男は、詩織さんの元交際相手の兄だった。

猪野詩織さんが刺殺された現場を調べる埼玉県警の捜査員ら=1999年10月、埼玉県桶川市

 詩織さんは事件前、元交際相手のグループによる嫌がらせに悩んでいた。99年3月、詩織さんが別れを切り出して以降、当時の交際相手は「家族をめちゃくちゃにしてやる」「弟を学校に通えなくしてやる」と脅迫するようになった。

 7月には「男を食い物にしているふざけた女です」などと書かれた詩織さんの写真入りのビラが自宅周辺に貼られ、憲一さんの勤務先にまで数百枚の中傷文書が送り付けられた。元交際相手は肩書を自動車販売業と偽って詩織さんと交際していたが、実際には風俗店を経営し、部下らを動員して嫌がらせを続けた。後に名誉毀損容疑で10人以上が逮捕される組織的な犯行だった。指名手配された元交際相手は、逃亡先の北海道・屈斜路湖で水死体で見つかった。自殺とみられている。

 「早く捕まえてください」。詩織さんと京子さんが相談した県警上尾署の刑事第2課長は、単なる男女間のトラブルだとして本格捜査に着手しなかった。揚げ句の果てに、詩織さんが提出した名誉毀損容疑の告訴状を被害届に見せかけるため、署員が調書の「告訴」を「届出」に改ざんした。被害届であれば告訴と違って速やかに捜査する義務が生じないからだ。捜査を先延ばしする間に、事件が起きた。

 遺族は報道にも苦しめられた。約3カ月間、朝から晩まで自宅の周りを報道陣が取り囲んだ。取材が過熱し、まるで詩織さんに非があるかのような事実と異なる報道があふれた。「詩織の苦しみ、悔しさに比べればマシだ」。家族はそう言い聞かせ、数え切れない屈辱を乗り越えてきた。

 ▽詩織さんの手紙

 憲一さんによると、詩織さんは幼いころ「お父さん、ハンカチ持った?」と玄関まで見送りに来てくれた。テレビでサッカーを見て、一緒にヤジを飛ばして盛り上がった。弟2人の面倒もよく見てくれた。

自宅の祭壇に飾られた猪野詩織さんの写真の数々=2019年8月、埼玉県上尾市

 憲一さんは今も、大学生ぐらいの女性がいると「詩織じゃないか」と視線を向けてしまう。脳裏に焼き付くあのころの娘も、年を重ねていれば41歳。「『早く寝なさいよ』『駄目よ、飲み過ぎちゃ』なんて言われちゃうんだろうな」。深い悲しみに襲われることは減ったが、怒りと悔しさは消えない。

 詩織さんの友人が子どもを連れて訪ねてくることもある。京子さんはうれしさに時間を忘れるが、ふと寂しくなる瞬間がある。「生きていれば私たちにも孫がいたのかな」。自分はなぜ娘を助けられなかったのか、考え込んでしまう。

 両親には忘れられない思い出がある。殺害事件の公判が進んでいた2001年の正月のことだ。両親の元に、死んだはずの詩織さんからはがきが届いた。幼い筆致で書かれた文字には見覚えがあった。1985年のつくば科学万博で、7歳の詩織さんが未来の自分に宛てた手紙だった。「2001ねんのわたしはどんなひとになっているかな。すてきなおねえさんになっているかな。こいびとはいるかな。たのしみです」。2人は涙をこらえられなかった。

2001年正月に自宅に届いた7歳の詩織さんが書いた手紙=2019年8月、埼玉県上尾市

 2人は事件後、再発防止を訴える活動に取り組んでいる。京子さんは全国犯罪被害者の会(昨年解散)の中心メンバーとなり、犯罪被害者基本法の制定や、刑事裁判の被害者参加制度導入に尽力した。憲一さんは弁護士会や市民団体から数多くの講演依頼を受けてきた。必死に活動することで、つかの間だが、つらさや怒りを忘れることができた。自分たちが詩織さんに生かされていることを思い知らされた。

 会社を退職し、地元で子どものサッカー大会の審判をしながら暮らす憲一さんは、今も講演会で全国に足を運ぶ。犯人だけでなく、捜査を怠った警察、娘の名誉を汚す報道を繰り返したマスコミへの怒りは変わらない。「娘は3度殺されました」。その言葉は、警察とマスコミに教訓を忘れるなと訴え掛けている。(年齢は取材当時、続く)

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