ビリー・ジョエルの新しいキャリア、アルバム「イノセント・マン」は緊急発売! 1983年 8月7日 ビリー・ジョエルのアルバム「イノセント・マン」が日本でリリースされた日

ビリー・ジョエルの大きなケジメ、前作「ナイロン・カーテン」

私は CBSソニー洋楽で、80年代のビリー・ジョエルを担当していました。前任者の後を受け、1982年の『ナイロン・カーテン』から89年の『ストーム・フロント』まで、チームでやった時もありますが、現場のディレクターとして商品を制作し、いかに日本で売っていくのか、などを仕事をしていました。

このリマインダーにもビリーに関しては『ナイロン・カーテン』発売時でのマーケティングの事(コラム:ビリー・ジョエルの新しいファンを獲得せよ!音楽マーケティング最前線)や、彼の素顔などについて何回かアップしていますし(コラム:松田聖子もオモテナシ ♡ ワンパク坊主、ビリー・ジョエルの素顔のままで)、『イノセント・マン』にも触れていますが、今回はあらためてアルバム発売時のディレクターの動きにもついて書いてみたいと思います。

この制作前後に、ビリーは長年連れそったマネージャーでもあった妻と離婚問題が具体化し、しかも自分はバイク事故で長期入院。初めてアメリカの病巣とも言えるベトナム戦争後遺症をテーマに初めて社会的メッセージ溢れるアルバムを作りました。本人も語ってましたが、『ナイロン・カーテン』の発表は人生とアーティストキャリアの大きなケジメだったのです。

奇跡!そこから1年も経たずにリリースされたアルバムの背景は?

そして『イノセント・マン』の発売に繋がるのですが、なにしろ『ナイロン・カーテン』発売の10カ月後の翌年の8月にマスターテープが届いたのです。ビリー・ジョエルほどのスーパーアーティストが、1年以内に新譜を発表する事は、奇跡にも近いほど稀な出来事でした。当初からこの83年期には彼の新譜は期待されてなかったわけですし、年間バジェットを達成しなければならない制作部としては大歓迎です。逆もあります。予定していた大物の新譜がなくなり、売上達成に赤信号がともることもありました。

ビリーはへそ曲がりな性格を持っており、メディアやファンが勝手にイメージをもつと、わざとそれを壊そうとします。とは言え、極めて自分に正直な人で、アルバムを噛み砕いていくと、そのときの彼の心をうかがい知る事ができるというものです。

人生をリセットしたビリー・ジョエル、幸せの絶頂の中でつくられた「イノセント・マン」

ジャーナリスティックアーティストのイメージを一刻も早く消したかったという事もあったはずですが、離婚も正式に成立。そして当代きっての人気モデル、クリスティーとの出会い。彼を取り巻く環境は一転しています。

人生をリセットしたビリーにしてみれば、プレッシャーからも解放され思う存分に、自身のルーツに逆らう事なく自由に気楽に作ったというわけです。ビリーはある時語っていましたが、“天からメロディが降ってくるなんてあり得ない。締切に追い込まれて頭絞って初めて曲が浮かぶよ” と。そのビリーがそれも猛スピードで作り上げたのです。喜びに溢れかえっている内容でした。彼女の歌まで作っちゃう訳ですからどれだけ喜びの絶頂にあったか分かりますね。

レコード会社は緊急発売体制、新譜の受注活動は音源なしで!

そしてディレクターの動きです。過去にも他テーマの時に、何度か制作マンの動きについてもアップしていますが、今回は特に流通サイドの流れを書いてみたいと思います。

『イノセント・マン』発売の情報が入ると、もちろん広告ページの押さえなどありますが、売り上げに直結する営業部隊が真っ先に動きます。この時代の商品は100%店頭で販売されています。営業には新譜受注という最重要な業務があり、お店から注文をとりつける必要があります。これは時系列的には商品製作よりも先にある作業です。

新譜受注プラス・バックオーダーが会社の売り上げですから、初動でどれだけの枚数がお店に入っているかという事はレコード会社にとってのライフラインでもありました。

発売日の大体二ヶ月前に受注を開始するのですが、情報の入手次第では発売日の直前ということもありました。音楽の商品といえども、実績あるアーティストの場合は、洋邦限らず、新譜の音を待たずに行われるものです。叱られそうですが、受注資料もテキトーに推測で書く時もありました。

タワーレコードは敵、ハンディキャップを背負いながらの輸入盤対策

80年代においてレコード会社洋楽にとっての最大の問題は “輸入盤” です。この頃タワーレコードは敵でした。ビリークラスともなると大量に本国発売から数日後には入ってきます。しかも国内盤より1,000円近く安い販売価格です。とは言え、こちらも最短の製造工程を取っています。マスターテープやジャケットのフィルムが到着して、ディレクターが帯の原稿や解説対訳などを3日で入稿できれば3週間後には商品として完成します。とは言え、すぐには店頭に並べる事が出来ない、という流通事情がありました。

社内はいくらでもスピードアップは可能でしたが、卸の流通問題だけは如何ともしがたいものありました。当時メーカーと直接契約していた特約店と呼ばれる小売店以外は星光堂など卸の取り扱いになってます。会社によって差はありますが、平均すると業界全体の45%ぐらいだと思います。レコードの価格は再販制度で守られ日本全国同じ定価ですし、発売日も同じ日に全国一斉は絶対ルールでした。

特に輸入盤店がある東京や大阪の都市部を先行発売させることはならず、北海道の根室や沖縄宮古島に行き渡るまで、待たねばならいのです。これで1週間は待つ事になります。そういうハンデを背負いながら輸入盤と競争していました。

ポップスの宝箱、邦題のヒントは60年代の洋楽ドーナツ盤から

ディレクターとして、『イノセント・マン』の音源を初めて聴いた時から、およそ三日ぐらいの時間的猶予の中で、アルバム、収録曲の邦題を決定し帯の原稿を書き上げると言うわけです。ライナーノーツと対訳も同じスケジュールであげてもらいます。宣伝や営業のために資料なども同時に作成します。もちろん初期資料は全てが手書きです。制作の仕事は企画書から始まってこういう書き物が多いですね。それにしても、特に邦題などは後世に残るものなので手を抜けませんが、時間経過の中で、歌の本当の意味にフト気づくこともありました。後からこうしたかったと思う事ばかりです。

ビリーと私は同じ年齢です。私は団塊の世代の一番下。彼もアメリカのコールドウォーベイビー。彼のルーツはビートルズ以前はフォー・シーズンズや黒人ドゥーワップ。国は違っても、子供の頃ラジオから流れていた音楽に共通のものがあります。こういう表現も妙ですが『イノセント・マン』全体に溢れるサウンドは、そういう60年代の洋楽ドーナツ盤一枚330円の世界観です。となると邦題もその世界に近づけようと決めました。

自分にとっての懐かしき洋楽ドーナツ盤は、悲しき~、恋する~、愛する~など、定番は漢字とカナの組み合わせでした。また、この時代もまだラジオがヒットを作っていました。特にシングルカット候補曲には、DJ が曲紹介してリスナーが覚えやすいタイトルをつけたつもりです。たとえば、「あの娘にアタック」「夜空のモーメント」「今宵はフォーエバー」。短くまとまっている「アップタウン・ガール」「イノセント・マン」「ロンゲスト・タイム」に日本語は邪魔ですよね。帯原稿にも、“これはポップスの宝箱” とか記載しました。

輸入盤との差別化で実施したTシャツプレゼント企画は…

初回枚数は、ビリーですから10万枚以上はお店に入ってました。この初回購入者の特典として、先着5,000名にTシャツプレゼントを行いました。応募者の抽選ではなく大胆にも先着です。輸入盤との差別化のためでもあったし、初回分を早く消化させたいと先着プレゼントを初めて実施しました。ですが、結果大失敗…。

たくさんの購入者が発売日の翌日にはジャケットに貼り付けた応募券を速達で送ってくれましたが、1週間も経たない内に、ピタッと届かなくなりました。アルバムは初動から絶好調でベストセラーにまでなったのですが、ビリー・ジョエルの新譜で先着というところで、間に合わない… と、みなさん諦めたのですね。これは大いに反省しました。

ともあれ、ビリーは『ナイロン・カーテン』の発表で人生と彼のキャリアを大きくリセットしています。そして、この『イノセント・マン』で、また新しい人生とアーティストのキャリアをスタートさせたというわけです。

カタリベ: 喜久野俊和

© Reminder LLC