【明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年】 No.205

▲益次郎が実美に宛てた手紙の写し(筆者蔵)

(12月4日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

最後の手紙

 10月1日、益次郎は長州藩邸から担架に乗せられると、高瀬川を船で下った。この時、担架を運んだのは、寺内正毅、児玉源太郎らであった。

 入院先の大阪医学校病院では、益次郎の治療に、オランダ人医師のボードウィンがあたった。

 1862(文久2)年に来日した彼は、長崎養生所で教育にあたり、1867(慶応3)年には幕府と陸軍医学校創設についての契約を結んだ。その後、一時オランダに帰国。翌年、再来日したが、幕府はすでに崩壊していた。この時、新政府は陸軍医学校創設については、イギリスと契約を結んでいた。

 1869(明治2)年2月、緒方惟準らの尽力により、ボードウィンを招き大阪医学校仮病院が創設された。7月には移転し、8月には大阪医学校病院が設立されたが、主導権は東京の医学校から派遣された医師たちが握り、仮病院創設にあたった惟準は冷遇され、ボードウィンも帰国を考えるようになった。

 この状況を知った益次郎は、ボードウィンを引き留めるため、輔相・三条実美に手紙を送った。

 仰臥のまま、苦痛に耐えながら書いた濃淡混じりの文字から、益次郎の熱誠が伝わってくる。

(続く。次回は12月18日付に掲載します)

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