東条英機らA級戦犯の最期克明に 教誨師が講演で語る

このほど出版した「A級戦犯者の遺言」を手にする青木さん(名古屋市・同朋大)

 「誰も知っていない東条さんの最期がどうであったかということを申し上げたい」。戦後直後の東京裁判で絞首刑となった東条英機らA級戦犯の教(きょう)誨(かい)師を務めた僧侶の講演録を、京都市の出版社が発行した。1948年12月23日、絞首刑執行日の東条らA級戦犯の様子やその2日前の執行宣告日の模様が教誨師の立場で語られている。

 教誨師は浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺、下京区)の僧侶で東大教授だった故花山信勝氏(1898~1995年)。花山氏は46~49年まで、東京にあった巣鴨プリズンで宗教者として戦犯に仏教を説き面接する教誨師を務めた。A級戦犯の絞首刑に立ち会った唯一の日本人だった。

 当初、花山氏はA級やB、C級の戦犯たち数十人と法要を営み、法話を行うことが多かった。次第に市民の支援を仰ぎながら仏教書や念珠の差し入れを行い、絞首刑判決を受けたB、C級戦犯との面談を行っていた。

 花山氏が東条と個別に面談を始めたのは、東京裁判でA級戦犯らに絞首刑などの判決が言い渡された後の48年11月18日。このほど出版された講演録「A級戦犯者の遺言」では同月26日の2回目の面談記録から収録されている。

 東条は「今後、科学が進歩してどのように世界が変わってくるか知らないが、すでに三千年も昔のお経に書いてある」と話したとし、獄中で東条が仏教書を通じて仏教に関心を高めていた様子が浮かぶ。

 同年12月2日の4回目の面談でも東条は「真っ先に政治家が大無量寿経を読まねばならない」「巣鴨プリズンに入って初めて人生という問題について静かに考える余裕ができた」と述べていた。

 また面会日は不明なものの、東条が戦犯として逮捕される直前、拳銃自殺を図り命を取り留めた経緯について花山氏は真意を尋ねている。東条は「自分が作った戦陣訓の中で軍人は敵の捕虜になってはならん。潔く自決せよと教えた。それを実行したまで」と語ったという。

 

 同時期、米国では弁護団が連邦最高裁判所に東京裁判は違憲であるとの訴えを提出していた。しかし48年12月20日に却下された。これを受け同月21日午後9時過ぎから「23日午前0時過ぎから刑を執行する」との宣告が行われた。

 「A級戦犯者の遺言」では花山氏が宣告時の様子を記録したメモの写真が添付されている。宣告は体重計の置かれた一室で、巣鴨プリズンのハンドワーク所長ら10人以上の米軍将兵と花山氏が立ち会ったことが手書きの図から読み取れる。

 東条は左手に念珠をして臨んだ。さらに宣告を聞いた東条は「刑死前2、3時間ほど花山さんにお話を願いたい」と述べたという。その後花山氏は、A級戦犯7人と十数分から1時間程度の面談を繰り返した。

 22日深夜。手錠を掛けられた7人は土肥原賢二、松井石根、東条英機、武藤章の1組目と、板垣征四郎、広田弘毅、木村兵太郎の2組目に分かれて順に絶筆の署名を行った。さらに南無阿弥陀仏と唱え、万歳三唱を行い、それぞれ刑場に向かった。

 2組目に加わった広田が万歳をしなかったと、作家の故城山三郎氏が小説「落日燃ゆ」で記述したことについて花山氏は講演で「広田さんも一緒に天皇陛下万歳と大日本帝国万歳を三唱された。作者の誤解にすぎない」と明確に否定している。1組目の刑執行は23日午前0時1分、2組目は同20分だった。

 花山氏は講演終盤に東条の辞世の歌として「さらばなり 有為の奥山 今日超えて 弥(み)陀(だ)の御(み)許(もと)に 行くぞうれしき」を挙げ「お念仏によって救われて、西方のお浄土へ往生された」としている。

 講演は1985年ごろに広島県呉市で行われた。講演録の著者で同朋大の青木馨非常勤講師(65)が自身の寺に伝わる録音テープを文字起こしして解説を加えた。

 著者の青木さんは「今回改めて花山さんの観察力、記録の正確性に驚かされた。講演やメモからは戦争責任者の声を残さなければならないという責任感と使命感がひしひしと伝わってくる。花山信勝という人が忘れられていく時代に、もう一度花山さんが伝えたかったことを今の社会に発信できればと思い出版した」と語る。

 「A級戦犯者の遺言」は四六判、136ページ。法蔵館。2200円。花山氏の講演のCDも付いている。

花山氏と出会い仏教への関心を高めていった東条英機(国立国会図書館蔵)
A級戦犯の絞首刑執行に立ち会った唯一の日本人として知られる故花山信勝氏(青木さん提供)
巣鴨プリズンの刑場跡地に立つ石碑。「永久平和を願って」と刻まれている(東京都豊島区)
A級戦犯7人の刑執行後に行われた花山氏の会見を伝える1948年12月24日付の京都新聞

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