「ここが地獄だ」 被爆・戦争体験「語り残したい」 焼け野原歩き遺体調査

元警察官 前田勝美さん(92)

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負傷者の救護や遺体の確認をした場所を歩き「この辺りは焼け野原だった」と語る前田さん=長崎市目覚町

 広島・長崎への原子爆弾投下と日本の敗戦から75年を迎えた。節目の年に当たり長崎新聞社が被爆・戦争体験を募集すると、「語り残したい」という人たちから多くの連絡があった。われわれは過去から何を学ぶことができるのか。体験を寄せてくれた人たちの声に耳を傾けた。

 「この辺りはすべて焼け野原だった。黒焦げの死体がいっぱいあった」
 大型商業施設が立ち、多くの人や車が行き交う長崎市茂里町。同市かき道4丁目の元警察官、前田勝美さん(92)が、75年前の真夏の記憶をたどりながら語り始めた。
 1927(昭和2)年、北松福島村(現松浦市福島町)に生まれた。警察官のおじに誘われて44年7月、長崎の警察練習所に入校。45年2月、巡査として長崎署に配属された。
 45年8月9日。爆心地から約3キロの磨屋国民学校(諏訪町)の隣に、前夜から詰めていた。仮眠を取っていたら、稲妻のような閃光(せんこう)とごう音を感じた。詰め所の外には割れたガラスが散乱していた。避難してきた人に話を聞き、浦上地区に爆弾が落ちたと知った。夕刻になり「翌朝、長崎署に集まれ」と伝令が来た。
 10日午前8時ごろ、油木谷周辺の調査と救護の指令を受け、5人ほどの班で向かった。長崎駅前から西坂を歩き、聖徳寺(銭座町)を抜けた時、景色が一変した。目の前すべてが焼け野原。長崎医科大の煙突が「く」の字に折れ、大学裏手の木立が真ん中からねじ切れているのが見えた。
 黒く焼け焦げた人や馬の死体が無数にあり、手を合わせながら歩いた。松山町付近はほとんど何もなく、ここが爆心地だとは気付かなかった。
 大橋町付近に入ると、光景は凄惨(せいさん)を極めた。無数の遺体が浦上川に頭を向けて折り重なり、川面には下半身のない遺体が浮いていた。「ここが地獄だ」と思った。
 油木谷の大きな防空壕(ごう)に着くと、命からがら逃げ込んだたくさんの人がいた。ほとんどは手の施しようがなく、声を掛けて身元を確認した。
 「水をくれ」という人には水筒の水を与えた。死にかけているのに「ありがとう」と感謝する人もいた。水がなくなると、近くの壊れた水道でくんだ。水を与えたら駄目だとは聞いていたが「助けようがないのなら、せめて水だけでも飲ませたかった」。
 11日から14日にかけて、遺体確認のため茂里町付近を歩いた。がれきを除去して遺体の身元を確認し、性別、年齢、身長を記録した。100体以上を調べたが、怖いという感情は湧いてこなかった。
 戦後、警察官として40年間働いた。鑑識係が長く、多くの遺体に接してきた。しばしば「なぜ自分は生かされているのか」という思いが込み上げてきた。
 退職後は、被爆体験を何度か地域の福祉施設で話した程度だ。だが最近は「語らないといけない」という思いが強くなってきた。「二度と戦争をしてはいけない。そのために語りたい」。それこそが生かされた者の責任だと考えている。