『キッドの運命』中島京子著 こことあそこは地続きである

 私が小学生だった頃。クラスの宿題で、「未来の想像図」を描いてくるように言われた。「にじゅういっせいき」になったら、あんなロボットがいる。こんな願いが叶う。そういういわゆる妄想を存分にふくらませて、絵にして持って来いと担任教師は言うのだ。

 何を描いたらいいのか、皆目、見当がつかなかった。今、ここにあるものを、変容させることならできる気がするのだ。でも、今、ここにないものをゼロから思いつくなんて、何をどうしたらいいのかさっぱりわからない。ちょうど手元にあった子ども用の月刊誌に、未来のロボットを描いたページがあったので、そこに描いてあったロボットを適当に引き写して持っていった。そしたら、あっさりと、級友たちにバレた。クラス中が読んでいる人気雑誌だったのである。

 本書に束ねられた6本の短編は、「近未来」を舞台にしている。ここに描かれる風景たちは、私たちが立っている「今ここ」と、遠く離れているようで、はっきりと地続きである。例えば、二度の津波と原発事故を経ていたりする。香港の混迷がさらに混迷を重ねて描かれたりする。少子化を経て、あらゆる技術が発達して、高齢者や男性さえもが妊娠することが可能になったりもしている。ただ、本書が秀でているのは、そういった突飛な発想に軸足が置かれていない点である。じゃあ、軸足はどこに置かれているのか。

 人間の「しでかし」である。

 1本目の『ベンジャミン』は、滅びた生き物を蘇らせる技術を持ってしまった人間が迎える局面を描いている。2本目の『ふたたび自然に戻るとき』では、鳥類の目線で、人類の栄枯盛衰が語られる。3本目の表題作『キッドの運命』は壮大だ。ふくらみまくった人工知能が、人間界の限界点を超えてしまって、ついに禁止されてから、さらに先の光景が、極めてドライに描かれる。

 そう、手触りはドライなのである。今ここで私たちがねっちりと執着しながら生きている事柄どもが、遠い昔のこととしてさっぱりと語られる。

 4本目の『種の名前』が、個人的にはとても好きである。幼い頃に母を亡くした少女が、夏休み、母方の祖母の家に遊びに行くと、そこでは畑で育てた野菜や米や味噌で営む手作りの暮らしが待っていた。父とその恋人との暮らしに希望を無くしている少女に、その日々が、力を与える。5本目の『赤ちゃん泥棒』では徹底的に管理された妊娠と出産が描かれ、6本目の『チョイス』では、ついに「安楽死」を自ら選び取る物語が語られる。

 読み終えるごとに、ふう、と息をつく。ここに描かれている未来は、あの日、担任教師が私たちに要求したようなわくわく感とは、はっきりと一線を画している。けれど、目を背けることができない何かが、この1冊にはあるのだ。

(集英社 1500円+税)=小川志津子

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